「御法主上人猊下に法義上の誤りなどあるはずがない」
との表現も、いろいろな方のブロブ内に出てくるポピュラーな内容ですね
どの様な場合に、この言葉が用いられるかというと
やはり御遺命の戒壇論を論じる時に
○「顕正会側」
時の貫主も仏法の教義に相違する事がある
○「日蓮正宗側」
「御法主上人猊下に法義上の誤りなどあるはずがない」
という感じに使用されていますね
この部分について実際の所はどうなのか?
【近現代における戒壇問題の経緯と真義】から
日顕上人の指導を確認して行こうと思います
○(53p)
日蓮正宗としては創価学会が昭和39年の時点で
戒壇建立をさげすんでいることを知っていた
と記載されています
つまり最低でも
昭和39年の時点で既に創価学会の御遺命の戒壇の定義は
間違っていると日蓮正宗は知っていた
しかし
創価学会の圧力によって
正本堂を本当の御遺命の戒壇っぽくしてあげなくては
ならない状況だったと思われる
だから、最低でも昭和39年以降の
創価学会に有利な御遺命の戒壇の定義は
日蓮正宗のリップサービスとみていいのかなと思われる
○(54p~55p)
創価学会がだんだん正本堂を
「本当の御遺命の戒壇だ!」と言い出してきた
その圧力でもって日蓮正宗としても
「正本堂は本当の御遺命の戒壇です」
みたいな事を言ってしまっているが
その当時は宗門の全体が学会の
そのような考えの在り方に、ずっと引きづられていった
つまり日蓮正宗は昭和39年の時点で
創価学会の考える御遺命の戒壇の定義は間違っていると知っていたけど
最低でも昭和40年の時点で
日蓮正宗全体が創価学会の間違った御遺命の戒壇の定義に
賛同するしかなかったとの趣旨が書いてあります
○(58p~60p)
日顕上人が教学部長時代に
創価学会と、さらにその関係者から圧力をかけられて
昭和47年に『国立戒壇論の誤り』と
昭和51年に『本門事の戒壇の本義』を書かされた
創価学会の考える御遺命の戒壇の定義は間違っているとは知っていたが
正本堂を御遺命の戒壇っぽくする為に
どうしてもやらざるをえなかった
しかしながら、行き過ぎた記述が何点かあったが
あくまでも、日達上人の御指南を受けて書いた
この日顕上人の(何点か)の間違いの記述は
いったいどのくらい間違いの部分があるのか
具体的には書かれていないが
普通に考えると間違っていると分かっている
創価学会の御遺命の戒壇の定義を助ける為の本なので
日顕上人の言う通り現在では破棄しないとダメな書籍だと思われます
○(61p~65p)
昭和41年から昭和42年頃には創価学会は書籍ではっきりと
「正本堂は本当の御遺命の戒壇だ!」と
宣言するようになってきた
しかし、日蓮正宗としては昭和39年の時点では
創価学会の考える御遺命の戒壇は間違っていると知ってはいたが
昭和42年11月号の『大日蓮』に学会から
「正本堂は本当の御遺命の戒壇だと書け」と言われて
高木伝堂房・日顕上人・藤本栄道房・椎名法英房・木村寿顕房・菅野慈雲房・等が
当時の創価学会の圧力の空気に飲まれてしまって書かされてしまった
空気というものは恐ろしいもので
あのころはそういうものがいろいろあった
○(58p)(86p~87p)
創価学会が正本堂を本当の御遺命の戒壇にして欲しいと
圧力をかけられた背景があって
『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』のなかで
正本堂は未来には本当の御遺命の戒壇になるかもしれない
と言い過ぎたことを言ってしまった
この2冊の本は破棄したほうがいいとも思った
だけど、その当時は私はそのように書かざるを得なかったし
そういうことがあったのであります
(58p)には
『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』の本は
あくまでも日達上人の御指南のもと
書かされたとの記述があります
○(58p)(96p~98P)
『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』の本は
昭和39年の時点で創価学会の御遺命の戒壇の定義は間違っていると
知っていたが
創価学会の圧力により
創価学会の都合のいい御遺命の戒壇の定義を書かざるを得なかった
(58p)には
『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』の本は
あくまでも
日達上人の御指南のもと書かされたとの記述があります
以上の内容から
「御法主上人猊下に法義上の誤りなどあるはずがない」
との主張を考察すると
確かに御法主上人猊下が
御遺命の戒壇の法義を間違えるはずはないとは思います
しかし
御遺命の戒壇の法義を間違えるはずはないけど
創価学会程の強大な圧力をかけられてしまっては
創価学会のいいなりになるしかなったものと思われます
なので
正確な記述としては
日興遺誡置文のこの部分の解釈は
時の貫主に圧力をかけて仏法の教義に相違させてはダメ
というのが正しい解釈ではないでしょうか?
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