【質問⑧】(宗門は御遺命を破壊したのか・してないのか)について

宗門は御遺命を破壊したのか・してないのか?

についても

巷の様々なブロブに書かれている内容ですね

「当時は、その様なあやふやな事があった」

と書く人や

「宗門は一貫して御遺命など破壊していない」

と言う主張が大半ではないかと思います

そこで御遺命の戒壇についての教科書

「近現代における戒壇問題の経緯と真義」から

日顕上人の指導を確認して行こうと思います

①まず初めに調べておかなければならない内容は

【日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇なのか・そうではないのか?】

です

【質問③】国立戒壇は日蓮大聖人の教義ではない(国立という定義はされていない)について |


宗門としては御遺命の戒壇は国立との考えはあるけど

創価学会の圧力によって国立と言いづらくなってしまったのと

当時は国民の憲法改正への理解が少なかったから
との趣旨の事が書いてあります

②次に本書の中から

御遺命を破壊したのか・してないのかを判断できる様な内容を

ピックアップしていきます

〇最初は池田会長が「正本堂」を寄付するというから宗門は受け取っただけ

(45p~50p)

〇創価学会は、日達上人の言葉を利用しつつ「正本堂」を本当の御遺命の戒壇にするように仕掛けてきた

しかし、昭和40年の時には、宗門の全体が創価学会の考え方にずっと引きずられてしまった

(51p~55p)

〇最近、浅井会長が「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」という本を出版して

「日達上人と日顕上人は、創価学会の圧力によって、日蓮大聖人の御遺命を曲げてしまった」
と悪口を言っているのだが

私(日顕上人)は日達上人の御指導の元

「正本堂」の意義けをどうしてもやらざる負えなかった

(※本書では「正本堂の意義付け」の意味を、創価学会の圧力によって本当の御遺命の戒壇の定義を変更せざるを得ないとの趣旨が書いてあります)

私(日顕上人)は当時、教学部長をしていたから結局、この事について

当時の2冊の本を書くことになってしまった

(※2冊の本=国立戒壇論の誤り・本門事の戒壇の本義)

書いた2冊のなかにはどうしても当時

創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって書かされてしまった

(※創価学会以外の組織からも強力な要請があると書いてあります)

そのころ池田大作は「正本堂が本当の御遺命の戒壇だ」とずばり言っていて

浅井会長が捨て身の抗議をした
(56p~60p)

〇話を戻して、昭和41年になると

池田解消はさらに確定的に

「正本堂は本当の御遺命の戒壇だ」と主張して来て

それに伴って、日蓮正宗は間に入って散々立ち合いの元

創価学会と妙信講(顕正会)の議論が行われたのだが

創価学会はとにかく猊下を盾にして

「猊下と言えば文句は言えないだろうと」のずるい戦法を使っていた

だけど昭和42年11月号の『大日蓮』に

私(日顕上人)と・高木伝道房・藤本栄道房・椎名法英房・木村寿顕房・菅野慈雲房が

「正本堂は本当の御遺命の戒壇」っぽく書いてしまった

「これは当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのです。

空気というのは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々をあったのです」

(61p~65p)

(※この部分が宗門が御遺命の戒壇を破壊したのか・してないのかが非常に分かりやすい段落ですね)

〇さらに昭和43年代に入ると池田会長は

御書の全部を挙げて

「正本堂はまさしく本物の御遺命の戒壇だ」と決定してしまった

そこで顕正会が抗議をした結果

創価学会は『聖教新聞』で

「正本堂は本当の御遺命の戒壇ではない」と謝罪文を掲載した

(日顕上人は)

要するに正本堂が本当の御遺命の戒壇なのか・そうではないのかは

創価学会=妙信講(顕正会)の批判を上手くかわすために今はそうではないと言う

顕正会=正本堂は御遺命の戒壇ではない

宗門=正本堂は未来に御遺命の戒壇になるかもしれないし、ならないかもしれない

(この宗門の発言は日顕上人が後の段落で、この発言は取り消しと書かれています)

(66p~69p)

〇昭和45年4月8日に東京知事から創価学会に

「国立戒壇は憲法違反ではないのか?」

との問い合わせに対して創価学会は

御遺命の戒壇は

創価学会と宗門でお金を出し合って建立するので
「国立」ではないと回答したので

日達上人は昭和45年4月22日に

「今後は国立戒壇という名称は使用しない」

更に

「正本堂も事の戒壇である」と宣言した

(70p~71P)

(※この段落を読むと、はっきりとは言われてないですが創価学会の圧力によって宗門も
国立戒壇の名称不使用宣言をせざるを得ない状況だったのだとの日顕上人の眼光紙背に徹して本書を拝読して欲しいとの
メッセージがあるようの感じます)

〇我々(日顕上人、他)は、事の戒壇というと

「一期弘法抄」「「三大秘法抄」の戒壇だと思っているのだが

日達上人は

「御戒壇様のまします所は全て事の戒壇でよいのだ」と言われた

(71p~73p)

〇昭和47年2月、浅井会長は御遺命の戒壇は国立戒壇で

「事の戒壇」についての見解を変えるように要求をしてきて

それに固執しているから

日達上人は昭和47年4月28日に

「正本堂は事の戒壇と言っていいんだよ」という内容の訓諭を出した

だけど、私(日顕上人)にはこの訓諭は正本堂は事の戒壇で

あるとも言えるし・ないとも言えるし、どちらでもないと思う

(73p~75p)

〇昭和49年頃から創価学会が宗門を支配しようとしてきた

(1)~(6)の項目に分けて
具体的に宗門を支配して来ようとして

(6)は実行されてしまったとだけ書いてあります

(76p~80p)

〇結局、池田会長は浅井会長の抗議によって

「正本堂」を本当の御遺命の戒壇とはっきりと言えなくなってしまった

そこで、池田会長は宗門に

「賞与本尊の裏に正本堂は本当の御遺命の戒壇だと書け」

と圧力をかけてきたけど

池田会長は日達上人が自分の思いどうりにならない事に不平不満があった

(85p)

(※つまり浅井会長の抗議がなければ、日達上人は池田会長に思いどおりになっていた可能性が高いとの趣旨が感じられます)

〇そういう背景のなかで

当時の2冊の本のなかで

「正本堂は将来、御遺命の戒壇になる可能性がある」と書いたけど

それは創価学会の圧力によって書かされたので
あの2冊の本は破棄する事が好ましい

正直に言いうと、やはりその当時は、私はそういうことを書かざるを得なかったし

そういうことがあった
(86p~87P)

〇『国立戒壇の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』の2冊の本は

正本堂は公布の時に本当の御遺命の戒壇となる建物だと

その時はそう思って書いてしまったけど

現在においては不適当であるとここではっきりと言っておきます

(96p)

このページで当時の2冊の本の中で

正本堂が本当の御遺命の戒壇になると思って書いてしまったと

はっきりと日顕上人が吐露されているので

今更日蓮正宗が御遺命を破壊したとか、してないとか

既に日顕上人は答えを言われていると思うのですが

〇平成3年3月9日に私(日顕上人)が言った事は

当時の2冊の本は、その時はそう思って書いたけど

現在においては不適当であるとはっきり言っておきます

当時の2冊の本を書いてしまったのは

正本堂を本当の御遺命の戒壇に作り上げようとした創価学会が圧力をかけてきたせい

当時の2冊の本は正本堂がなくなった現在

その内容に関しては全くの空論(意味がない)

(96p~98P)

〇なぜ、正本堂を解体したかと言うと

平成2~3から創価学会が謗法団体になってしまったから

(※本書を読むと、昭和40年の段階で既に、御遺命を曲げる謗法の団体であるとの趣旨が書いてあると思われます)

以上の①②をもって

宗門が御遺命を破壊したのか・してないのか?

について考察します

大事なことは

私だけで判断するものではなく

宗門の中だけで決めるものでもなく

日顕上人の言われる様に

本物の御遺命の戒壇は国民の総意が必要という所です

(つまり言い換えるなら国民の納得ということです)

なので①と②の内容を考察すると

少なくとも、宗門は創価学会の圧力によって

御遺命の戒壇の教義を守れなかった

御遺命の戒壇の教義を変更してしまった

との感想を国民は持つのではないかと思います

後は「御遺命破壊」との表現方法ですが

「破壊」という表現は現時点では国民からそのワードの感想は

出ないのではないかと推測しています

しかし、将来国民の総意でもって御遺命の戒壇を造るとの機運になった時には

その時の日本国民からは昭和40年代の宗門の本当の御遺命の戒壇の教義を変更した事は

「破壊」と言うワードを使用する可能性は十分にあると思っています

以上をもって

宗門は御遺命を破壊したのか・してないのか?

を日顕上人の御指導に当てはめて

考察しましたがいかがでしょうか?

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