「国立戒壇」の名称に固執しない
と宣言された日達上人の指導も、よく各ブログの方が載せている内容ですね
要するに
昭和45年5月3日、日達上人は
日蓮大聖人は世界中の人々の為に「戒壇の御本尊様」を残されたのであって
日蓮大聖人の仏法を日本の「国立」「国教」とせよ
とは言われていない
だから「国立戒壇」の名称を用いることは、現代においては適当ではなく、布教の妨げになる為
日蓮正宗としては「国立戒壇」の名称を用いないことを決定した
との内容ですね
この日達上人の指導を根拠として
各ブログの方達は
「国立戒壇」は間違いだ!
と言う流れになっています
この部分の真相は
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」を読まないと
分かるハズがないですね
では本当に日顕上人は
日蓮大聖人の仏法を日本の「国立」「国教」とせよ
とは言われていない
と思っていたのか・どうかが大事なポイントだと思います
【質問③】国立戒壇は日蓮大聖人の教義ではない(国立という定義はされていない)について
↑
本書では
宗門としては御遺命の戒壇は国立との考えはあるけど
創価学会の圧力によって国立と言いづらくなってしまったのと
当時は国民の憲法改正への理解が少なかったから
との趣旨の事が書いてあります
日顕上人は本書のなかで
昭和45年5月3日の日達上人の発言が
どのようなプロセスで発表となったのかを
言える範囲の内容で語られています
(70p~73p)
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〇昭和45年4月8日
東京都知事から
「創価学会が主張している国立戒壇は憲法違反ではないのか?」
との問い合わせに対して
〇昭和45年4月22日
宗門の会合「時局懇談会」で
国立戒壇を主張している創価学会が東京都知事から
「憲法違反ではないのか?」との質問を受けていることにたいして
緊急会議を開いたその会議の結果
「戒壇の御本尊様がまします所は、どこでも、どんな場所でも事の戒壇との定義にしよう」
と決定した
しかし、日顕上人自身は
本当の事の戒壇は
『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇ではないのか?
と疑問はあったが
日達上人がそう言われるから・・・・
との趣旨が書いてあります
〇そして
昭和45年4月23日に創価学会は東京都知事に対して
本門戒壇を国立戒壇と言っていたがそれは訂正して
民間で建てる正本堂が本門戒壇です
なので
国家権力とは無関係ですと回答した
しかし、これは浅井会長から
「国立戒壇を否定した、大変な間違いだ」との反対があった
(本書を読むとこの浅井会長の反対によって、創価学会は正本堂を御遺命の戒壇と言えなくなったとの趣旨が書いてあります)
だから
日達上人は昭和45年5月3日に
「国立戒壇の名称を使用しない」と宣言した
と趣旨を話されています
○(90p)には
日興上人の書かれた棟札が
文献的に確かではないことに触れて
文献的に確かなものでなければ用いてはならないと戒められています
日顕上人は本書で
日達上人の当時の御遺命の戒壇に関する
(指導・宣言)に対して
正本堂の意義付けの為の、創価学会から圧力を書けられて言わされた内容
更に
御遺命の戒壇に関する、日達上人の定義変更に対して
私は違うと思っているのだが・・・・
との趣旨を吐露しており
御遺命の戒壇に関する(指導・宣言)に関しては
日顕上人の考えの通り
確定でないどころか・御遺命の戒壇の定義を変更してしまったとの趣旨を書かれているので
日達上人の(指導・宣言)を根拠とすることは出来ないのではないでしょうか?
【まとめ】
以上の日顕上人の御指導をまとめると
日達上人はの日達上人の宣言は
創価学会から圧力をかけられて言わさせた
との趣旨が見えてきます
日顕上人のお立場では、ここの重要部分ははっきりと
言うことは出来ないと思いますが
ここまでの情報を吐露して頂ければ
私達も大体は察しが付きます
昭和45年5月3日の
創価学会第33回本部総会は有名なので
ネットで検索すれば、簡単に全文が読めると思います
仏法の教義が分からない人でも一見読めば
難しいことは判らないと思いますが
内容の半分くらいは
創価学会のおかげて日蓮正宗は、ここまで大きくなれましたとの
趣旨が書いてあります
(そもそも、大事な事を宣言する前に創価学会を持ち上げている事自体が創価学会に気を使っている事が分かる内容です)
宗門は創価学会には頭が上がらないんだな・・・・
くらいは感じ取れると思われます
この空気のなかでは、創価学会に反論することは出来ないんだろうな
との感想を持つのではないでしょうか
正に、元請会社と下請け会社の関係に近い感じに受け取れます
この様な創価学会と日蓮正宗が
主従関係の中での「国立戒壇の名称不使用宣言」を
一般の国民が果たして納得することができるのか?
一般の法華講員なら信心で胸に収めることは出来ると思いますが
一般の人を納得させるのは難しいと推測されます
ましては、日顕上人は本書のなかで
本当の御遺命の戒壇は「国民の総意が必要」と言及されているので
この様な足元の弱い宣言で
国民を納得させるのは正直、かなり無理があるのでは?と
思われます
↑
上記のブログ内にも書きましたが
昭和45年5月3日の創価学会第33回本部総会での
「国立戒壇の名称不使用宣言」
昭和45年5月12日の「時局懇談会」で
妙信講(顕正会)に対して
「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」
と仰せられた
及びその他の
日達上人の御遺命の戒壇に関する宣言は
全く根拠にならないと思われますが
どうでしょうか?
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