昭和40年までは創価学会は「実質上の戒壇」と表現していたが
昭和41年以降になると「事実上の戒壇」と表現することになったこれは言い過ぎた言葉です
本当の御遺命の戒壇は王法仏法に冥しなければならないし、仏法は王法に合しなければならないし
王臣一同に本門の三大秘密を持たなくてはならない
それからすると「正本堂」は具体的になにも実現していないから「事実上の戒壇」というのは言い過ぎた言葉です
戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって、色々に解釈できてしうから気を付けなくてはならない
「本当の御遺命の戒壇」と「最終の御遺命の戒壇」では意味が違うでしょ
「本門の戒壇」の言葉だけでは『三大秘宝抄』『一期弘法抄』に書かれている最終の御遺命の戒壇ではないと考えていい
つまり「実質上の戒壇」との表現なら許容範囲だが「事実上の戒壇」と表現すると「本当の本門戒壇」となってしますから
言い過な言葉との事です
【ネット内での誤情報】
上記の部分ネットでよく出てきますよね昭和40年の御供養趣意書には
「実質上の戒壇」と書いてあるのに浅井会長は正本堂の御供養に参加したという記事
日顕上人は「事実上の戒壇」と表現するのはダメだけど
「実質上の戒壇」ならなんとか許容範囲内というかギリギリセーフ的な感じで
本当の御遺命の戒壇にはならないとの趣旨を言われてますね
この部分も今後、各ブログの方達に質問して行こうと思います
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