【質問②】妙信講(顕正会)が正本堂建立の御供養に参加したとの事について

昭和40年3月26日の

正本堂建立御供養趣意書に

『正本堂建立は実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていた事がここに明らかになったのであります』

と書いてあります

そして上記の内容を根拠として

妙信講(顕正会)が正本堂は御遺命違背の建物と言っておきながら

正本堂の御供養に参加しているのは

おかしいとの、ブログをよく見かけますが

近年代における戒壇問題の経緯と真義に書かれている

日顕上人の御指導を読んでみると

〇学会は昭和40年1月26日、正本堂は実質上の建物になると言っている
(47p)〇昭和40年3月号の大日連の記事を今読んでも正本堂が御遺命の戒壇であると
はっきり言っていないと思う
(48p)〇こうして初めは広布の事相に約した御遺命の戒壇だったのが
池田会長の発言で本当の御遺命の戒壇っぽい建物として
使われるようになっていった経緯がある
(49p)〇昭和40年4月6日の時点で宗門の全体が学会の、考え方にずっと引きずられていった
(55p)

〇池田会長が昭和40年以降
今まで正本堂は実質上の戒壇という表現を、事実上の戒壇と言うようになった
でもこれは言い過ぎた言葉です
これでは正本堂を本当の御遺命の戒壇と言い切ってしまう事になる
(62P)

上記の日顕上人の御指導を読むと

「正本堂を実質的な戒壇」と表現するならキリギリセーフ

みたいなでも

「正本堂を事実上の戒壇」と表現すると

本当の御遺命の戒壇となってしまうから アウト

と書かれていると思われます

それに昭和40年の時点で宗門全体が、創価学会の考え方に引きずられる状況と書いてあるので

正本堂は御遺命の戒壇っぽいようなニュアンスにはするけど

でも正本堂は御遺命の戒壇ではない

みたいなどっちつかず的な状況だったと読み取れます

後、ブログを書いている人の中には

昭和52年8月号の「富士」のなかで

浅井会長は

昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において

御遺命破壊が発表されたと書いている

と書いている人もいるが

ただ、その当時は日達上人は正本堂は実質的な戒壇だから

本当の御遺命の戒壇ではないよと説明されているので

昭和52年の段階で昭和40年の正本堂を振り返ると

その当時、御遺命破壊があったと記載しているのではないかと

推測しています

後は、そもそも

平成16年に日顕上人が当時の近年代における戒壇問題の経緯を詳らかにされ

日蓮正宗としては「正本堂」が不正解の御遺命の戒壇だと分かっていたけど

創価学会の圧力で本当の御遺命の戒壇っぽくしてあげなくては

ならない状況だったとの趣旨を吐露されているので

顕正会だけを非難することは出来ないのではないかと思います

ですので一般的な考え方をするなら

このような宗門の状況で実質的な戒壇建立、と言われているにも関わらす

正本堂の御供養に参加した妙信講(顕正会)を

当時色々と間に挟まれていた状況の日顕上人の立場で言うなら分かるのですが

末端の我々が非難するのは

少し筋違いではないのかなと思いますが

どうでしょうか?

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