【質問㉓】日達上人は「正本堂は御遺命の戒壇である」とする創価学会の主張を戒め、認められなかった

創価学会は

「正本堂を御遺命の戒壇である」としてこれを強行しようとした

しかし、日達上人はこれに対して創価学会を戒められた

当然

「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を最後まで認めることはなかった

仮に妙信講が反対しなくても学会の主張は通らなかった

上記の内容もいろいろなブログの方が書いていますね

本当に日達上人は「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を

戒め、最後まで認めることはなかったのか

【近現代における戒壇問題の経緯と真義】から

日顕上人の指導を確認していこうと思います

○(53p)

日蓮正宗としては創価学会が昭和39年の時点で

戒壇建立をさげすんでいることを知っていたと記載されています


つまり最低でも
昭和39年の時点で既に創価学会の御遺命の戒壇の定義は

間違っていると日蓮正宗は知っていたと思われる

(54p~55p)
昭和40年の前半には創価学会が正本堂は本当の御遺命の戒壇だと言い出したそこで昭和40年4月6日に宗門でも大石菊寿師が

「正本堂はまさに本当の御遺命の戒壇ですね」みたいな事を

大日蓮昭和40年9月号に書いている

大石師の例の様に宗門の全体が学会が言う

「正本堂は本当の御遺命の戒壇だ」と言う主張に
ずっと引きずられていった


大石菊寿師が

「正本堂はまさに本当の御遺命の戒壇ですね」みたいな事を

大日蓮昭和40年9月号に書いていることを

日達上人が知らない訳はないと思います

さらに日顕上人は当時の状況を振り返って

大石師の例の様に宗門の全体が学会が言う

「正本堂は本当の御遺命の戒壇だ」と言う主張に
ずっと引きずられていった

とズバリ日達上人が率いる当時の日蓮正宗が

「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を認めてしまったとの

趣旨が書いてあるものと思われます

○(58p~60p)
日顕上人が教学部長時代に創価学会と、さらにその関係者から圧力をかけられて昭和47年に『国立戒壇論の誤り』と
昭和51年に『本門事の戒壇の本義』
を書かされた

正本堂を御遺命の戒壇っぽくする様に

創価学会に圧力をかけられてどうしてもやらざるをえなかった

しかしながら、行き過ぎた記述が何点かあったが

あくまでも、日達上人の御指南を受けて書いた


日顕上人は
昭和39年の時点で既に創価学会の御遺命の戒壇の定義は

間違っていると
日蓮正宗は知っていたと回想されておりますが

「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を日蓮正宗としては

創価学会と、さらにその関係者から圧力をかけられて

昭和47年に『国立戒壇論の誤り』と
昭和51年に『本門事の戒壇の本義』

を日達上人の御指南のもと書かされてしまった
との趣旨が書いてあります

(63p)
この問題に関しては妙信講と創価学会とが議論を続け
日蓮正宗は間に入って立ち会った学会は「全部日達上人がおっしゃた事なのだ」と日達上人のせいにするずるい戦法を取っていた


【近現代における戒壇問題の経緯と真義】の本は

冒頭の「発刊にあたって」に書いてある通り

正本堂の意義付けの背景を具体的に書いてあります

本書では創価学会に対して

(議論・法論・抗議)をしたのは妙信講と記載されている部分が何か所も出てきます

そして日顕上人は妙信講の抗議は命がけだったとも
記載されています

しかし
日達上人が御遺命の戒壇について創価学会を戒められた
と記載されている部分は一つもありません

上記の(63p)を読んでも
学会は「全部日達上人がおっしゃた事なのだ」と

日達上人のせいにするずるい戦法を取っていた

とのことなので
妙信講が議論に出るというより

本来は日達上人が創価学会を戒めるべきだと思われます

(※しかしながら、本書ではそれが当時の創価学会の圧力が巨大過ぎて「正本堂の意義付け」
を実行しなければならない旨も同時に書いてあります)

○(61p~65p)
昭和41年から昭和42年頃には創価学会は書籍ではっきりと「正本堂は本当の御遺命の戒壇だ!」と
宣言するようになってきたしかし、日蓮正宗としては昭和39年の時点では

創価学会の考える御遺命の戒壇は間違っていると知ってはいたが

昭和42年11月号の『大日蓮』に
創価学会から

「正本堂は本当の御遺命の戒壇だと書け」と言われて

高木伝堂房・日顕上人・藤本栄道房・椎名法英房・木村寿顕房
菅野慈雲房・等が

当時の創価学会の圧力の空気に飲まれてしまって

「正本堂は本当の御遺命の戒壇です」みたいなことを
書かされてしまった

空気というものは恐ろしいもので

あのころはそういうものがいろいろあった


この昭和42年11月号の『大日蓮』に

書かされた記事の内容を普通に考えて

日達上人が知らない訳がないと思われる

知っていても
当時の創価学会の圧力に逆らうことが出来ない

当時の状況が伺えます

(66p~67p)
妙信講と創価学会の議論の結果正本堂落慶直前、和泉覚が創価学会理事長として「正本堂落慶の時を迎えて」という
公式文書を『聖教新聞』に掲載して

正本堂は直ちには御遺命の戒壇に当たらない旨を発表した


この段落でも
あくまでも妙信講と創価学会が議論して

創価学会が『聖教新聞』で謝罪及び訂正をしたと書いてあります

(77p~79p)
特に昭和49年ごろのことだが色々な意味で創価学会が
実質的に支配しようとしたことがあった(1)本山事務機構の実質的支配
(2)財政面の支配(学会依存を高める)
(3)渉外面の支配
(4)信者に対する統率権の支配
(5)墓地、典礼の執行権の委譲
(6)総代による末寺支配上記のどこまで支配されたのかは

具体的には書いてないですが

(6)は実行されてしまったと書いてあります


【近現代における戒壇問題の経緯と真義】を読む限り
当時の創価学会からの圧力をかけられて

(6)総代による末寺支配だけで済むとは思えない

あくまでも総代による末寺支配は一般信徒が目に見えることを言ったまでで

実際には目には見えない
(1)~(5)まで

創価学会の圧力がかかっていたと考えるべきではないかと思う

この部分も日達上人が口頭で戒められているのかもしれないが

創価学会の圧力は阻止できていないと思われる

(84p)
昭和54年7月に日達上人が御遷化されて私としてはやはり日達上人が締め括られたところから
出発しなければならなかったのです


要するに
日達上人が締めくくられたところとは何かというと

創価学会が圧力をかけて
正本堂を本当の御遺命の戒壇にすることを

日蓮正宗に強要してきたことを拒否することは出来なかった

とのことだと思われる

(85p)
池田会長は浅井会長の抗議や色々な問題があって結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面から言えなくなってしまったのです


この部分でもはっきりと正本堂が御遺命の戒壇であると

創価学会が正面から言えなくなってしまった

のは浅井会長の抗議と書いてありますね

後の段でも日顕上人は書いてありますが妙信講に対して正面から

正本堂が御遺命の戒壇であると言えなくなってしまったけど
妙信講に見えない様に

陰で日蓮正宗に対して圧力をかけていたとの趣旨が
書いてあります

(85p~86p)
妙信講の抗議のおかげで池田会長は正本堂を
御遺命の戒壇と言えなくなってしまったそこで別の戦法を創価学会は考えて実行してきた創価学会は正本堂の記念の賞与御本尊の脇書きに

「正本堂は本物の御遺命の戒壇です」と書けと圧力をかけてきた

しかし、日達上人は
「正本堂が本物の御遺命の戒壇だと良いですね」

みたいなことを書いたから池田会長は怒った


この部分も本当に
「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を認めることはなかったのなら

日達上人は「正本堂は絶対に御遺命の戒壇ではない!」
と言い切るべきではないかと思う

○(58p)(97p~98P)

『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』の本は

昭和39年の時点で
創価学会の御遺命の戒壇の定義は間違っていると
知っていたが

創価学会の圧力により
創価学会の都合のいい御遺命の戒壇の定義を
書かざるを得なかった


(58p)には
『国立戒壇論の誤り』と『本門事の戒壇の本義』の本は

あくまでも日達上人の御指南のもと
書かされたとの記述があります

以上をもって

日顕上人の指導を確認すると

皆さんがよくブログで書いているような

創価学会は「正本堂を御遺命の戒壇である」として

これを強行しようとした

しかし、日達上人はこれに対して

創価学会を戒められた

当然「正本堂を御遺命の戒壇である」とする

創価学会の主張を最後まで認めることはなかった

仮に妙信講が反対しなくても

学会の主張は通らなかった

のような趣旨は一切なく

本書に書いてあることは

日蓮正宗は「正本堂を御遺命の戒壇」であるとする

「正本堂の意義付け」を

創価学会の圧力によって強要され実行してしまった

しかし、妙信講が創価学会と議論したおかげて

創価学会は正面から「正本堂は御遺命の戒壇である」と

言えなくなってしまった

との事が正しいのではないかと思われますが

どうでしょうか?

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