昭和54年5月3日に日達上人がお亡くなりになった
そしてその後を私がお受けしたのですから私としてはやはり日達上人が締め括られたところから、出発しなければならなかったのですだから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります
そしてその後を私がお受けしたのですから私としてはやはり日達上人が締め括られたところから、出発しなければならなかったのですだから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります
本書では、日達上人はこういっておられるけど
私の個人的見解はこう思っている、との段落が何か所も出てきます
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例えば、この段落もそうですね
日顕上人は教学部長時代、日達上人の「御遺命の戒壇」の部分の解釈に関しては
それは違うのではないか?との疑問はあったけど
その当時は創価学会の圧力もあったので
日達上人の解釈に従わざるを得なかったと回想されています
後は、2冊の本も書きたくないけど、書かされてしまったとの回想もあります
ですので「御遺命の戒壇の定義」に関しては、御遺命の戒壇部分に関する部分では
日顕上人は間違っていると思われていたのは明かだと思います
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