2023年7月1日  破折資料室 作者 辻野様からの御返事

<破折3-4案>本門戒壇の大御本尊様の住処が事の戒壇 – 顕正会事件簿&破折資料室 (goo.ne.jp)

破折資料室 作者 辻野様から下記の御返事がありました


 

メッセージ本文:

お返事の内容をブログで拝見しました。メールの方は届いておりません。

討論の方式について旭川様のご希望をお聞きしただけの段階で、勝手にテーマを設定してWeb討論を始められても困ります。

私の側の希望を申し上げれば、Web討論よりも、もし可能ならば、直接にご対面申し上げたいと思います。

旭川様は元創価学会員で、顕正会員ではいらっしゃらないとのことですが、それは本当でしょうか。例のブログの文章は、一分の道念ある顕正会員たちに宛てて作成したものです。顕正会の活動家たちは、血脈否定の大謗法という余念を交えながらも、本門戒壇の大御本尊様を少なくとも観念上は信じて読経唱題を実践し、また、御遺命の戒壇建立という理想に燃えて、やはり間違ったやり方ではありますが、折伏を実践しようとしている、ある意味、真面目な方々です。だから私は日寛上人『寿量品談義』を引いて「其の本尊に打ち向かい南無妙法蓮華経と唱ふる則(とき)んば本門の題目なり。志有らん人は登山して拝し給へ」と、彼らの「志」に呼びかけているのです。

しかし旭川様の場合、「志」はどこにおありなのでしょうか。いま、一体何を信じ、何を実践なさっていらっしゃるのでしょう。討論のお申し出はありがたく存じますが、話の終着点がどうにも見えません。頂けるご指摘は貴重なご意見として承って参りたいと考えておりますが、信仰上のお立場があやふやな方との法論ごっこは致しかねます。もし、本門戒壇の大御本尊様への恋慕渇仰の思いが特になく、自行化他の実践もされていないのであれば、そのような状態で「事の戒壇」の定義を細々と談義することは、かえって有害無益かと存じます。今、旭川様は「調査」と題して、問題の当事者ではなく評論家か審判のような立ち位置から、戒壇論に取り組もうとなさっておられるようにお見受けしますが、いかがでしょうか。人生の貴重な時間の浪費かと存じます。人生は無常です。仏法は、われわれが人生の当事者として如何に生きるべきかを指し示すものであって、ああでもない、こうでもないと、いつまでも長々と談義を続けるためにあるものではないのです。戒壇論の前に、もっと先にご理解頂くべきことが多々あるように感じます。

もし対面して頂ける場合、まずは旭川さんと私は、今それぞれ何を信じて、何に引っかかっているのか、今後どう生きていきたいのか、そういうところからじっくりお話させて頂くことになるかと存じます。「事の戒壇」の話はその後です。宜しくご検討のほどをお願い致します。

 

このメールは 国立戒壇に関する調査報告書 (https://asahikawa1990.com) のお問い合わせフォームから送信されました

 

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