「妙信講(顕正会)の処分について」(その3)

「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が仰せだけども

文献的に確かなものはないのです

その根拠となっているのは、日興上人の書かれたという棟札が一つあって

その裏書に「天母原」ということが書いてあるけど

この棟札は日興上人が書いたものではない、恐らくあとから書かれたものであるから
参考にはできません

日達上人は「天生原」というのは富士山の山麓一帯をいうと言われている

そして「正本堂」建設の場所は、総本山の敷地内に建てることが望ましいいと言っています

この段落は、よく皆さんのブログ内によく出てくるところですね

日興上人の棟札は、他の人が書いているから参考にならないと

ただ私がこの段落で思うことは

日興上人の棟札は参考資料にはならないと、皆さんブログでは言っているのに
(使える部分もあるという人のブログも見たことないですね)

当時の2冊の本に関しては、日顕上人が本書でなんども、創価学会によって

本物の御遺命の戒壇の定義を書き換えてしまったと訴えているのにも関わらず

使える部分もあると主張している意味が分からないですね

近々、ブログをやっている皆さんに質問してみようと思います

後は、この段落なんですが

この段落も恐らく、創価学会の圧力で

本物の御遺命の戒壇の定義の変更をかけた部分ではないかと思っているので

頭にとどめておく程度でいいのではないかと思います

ただ、日顕上人は文献的に確かな証拠がないのもは

参考資料としてはダメだと言われています

コメント