【『国立戒壇論の誤りについて』『本門事の戒壇の本義』の二書と戒壇の御門について】(その③)

あの二書は正本堂が出来る時と出来た後だったが

浅井会長の色々な問題に対処することも含めておるわけで

強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります

そういうことですから

正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは

はっきり言ってまったくの空論であると言ってよいと思います

この段落では2つポイントがありまして

①一つ目は

2冊の本を書いた理由は「浅井会長の色々な問題に対処することも含めて」
と書いてありますが

いわゆる、「正本堂の意義付け」の部分ですね

「田中智学による提唱」(25p~26P)を学ぶ 

↑

このブログ内でも書きましたが本書では「正本堂の意義付け」をどうやるのかが

何か所にも渡って記載されています

つまり「正本堂の意義付け」を実行する為に一番高いハードルは

教学の知識のある、末寺住職をどう納得させるのかがポイントになります

まともに本物の御遺命の戒壇の定義に修正をすれば

全国末寺住職が反発するのは目にみてて分かります

そこで、意義付けというテクニックが必要になってくるのです

つまり

〇〇の理由があるから、御遺命の戒壇の定義の変更が必要

↑

この〇〇の理由が必要になってきます

そこで、この〇〇の部分に浅井会長の主張が使われているのですが

本書では私のブログ内でも紹介していますが、何か所も出てきます

実際に調べてみると、浅井会長はそんな内容のことは言っては

いないとすぐに分かる話なのですが

当時は、あっているか・あっていないかではなくて

正本堂の建設はスタートしているし

まずは、「正本堂の意義付け」を先行してやろうというのが分かりますね

そうなると「顕正会は濡れ衣を着せられているじゃないか!」

と憤慨する人もいると思いますが

本書では

日蓮正宗が創価学会から圧力をかけられて

「正本堂が本物の御遺命のと言え」と強要されている時に

浅井会長が間に入って抗議してくれたおかげで

日蓮正宗は正本堂を御遺命の戒壇と言わずに済んだ

と何か所に渡って紹介してあります

なので、本書を読む限りでは

妙信講(顕正会)は創価学会と同じく悪者扱いにはなっていますが

御遺命の戒壇の正義を守った功績としては、堂々と胸を張っていい部分だと思います

(この部分も、昨今のブログをやっている方達は顕正会は

全てにおいて悪だ、みたいな事を書いていますが

顕正会が御遺命の戒壇の正義を守った部分に関して誰も触れていないのは何故か?

との疑問があります

この部分もこれから、グログをやっている方達に質問していこうと思います)

②二つ目は

2冊の本は、全部正本堂そのもののことを書いたから

正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることははっきり言って

まったくの空論であると言ってよいと思います

↑

「空論」を辞書でしらべると(役に立たない理論や議論)と書いてあります

要するに2冊の本は全部、正本堂のことについて書いたから

正本堂がなくなった現在は

2冊の本はまったく役に立たない理論や議論ですと日顕上人は言っています

この部分を読めば、現在皆さんのブログ内で

2冊の本は教学や破折に使えると言っている人が多いですが

2冊の本はまったく役に立たない理論や議論です

と日顕上人は言っているのに

どうやって使うのでしょうか?

今後、ブログをやっている皆さんに質問していこうと思います

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