かぶろんさんにtwitterにて下記の御返事を送りました
最初に、今後私とかぶろんさんの討論を見るであろう、法華講員と顕正会員の皆様にお話ししたいことがあります
今回かぶろんさんと言う方が使う国立戒壇否定の反論材料は「文証」ですね
文証を使った国立戒壇否定は、ネット上に出回っている国立戒壇否定のオーソドックスタイプですね
今まででも法華講員の方達が「文証」を使って反論してきましたが、論に詰まりました
かぶろんさんは反論の引き出しがそこまで多くないので
恐らく、ネット上に散見される「文証」による国立戒壇否定が使えると思って、言ってきていると思うんですよね
法華講員と顕正会員の皆様にはよく見て欲しいんですよ
文証を使っての反論がいかに空論なのか
誰も国立戒壇を否定できる人はいません
今後、かぶろんさんの反論理由をよく見るべきです
これが現実です
では、本題に入ります
言い張っているではなく、文証にないと言う証拠があり、事実だから言っているのです。
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これを言い張りといいます
いいですか、文証がない、御書に国立戒壇の語がないことなど
誰でも知っています、日蓮正宗が御書には直接には国立戒壇と書いてない旨を既に言っています
そのような事実は証拠でもなんでもないです
これを言い張りといいます
いいですか、文証がない、御書に国立戒壇の語がないことなど
誰でも知っています、日蓮正宗が御書には直接には国立戒壇と書いてない旨を既に言っています
そのような事実は証拠でもなんでもないです
文証がなくとも、御書にない建物でも造ることが出来る
これが現実です
文証を使っての論理は破綻しているんです
破綻している論理ではなんの説得力もありません、違いますか?
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