このタイトルの顕正会の主張に対して
日蓮正宗は
「国立戒壇」は「日蓮大聖人の仏法の第一義」などではありません。
と回答していると言うことですね
この部分について
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」から
日顕上人の指導を確認していこうと思います
※文書が長くなりすぎるので要点だけまとめてあります
〇「国立戒壇」は天皇主権の時代だったら、制度の上から出来る可能性が十分にあった(25p)
〇憲法が改正されて昔のようになれば「国立戒壇」はできる
↑
つまり、現在は主権は国民にあるから出来ないけど
再び政治体制が天皇主権にならば「国立戒壇」という名称が
正式な名称となるとと言う事だと思います
○(24p~29p)
大聖人の御書のなかに、直接に「国立戒壇」という語はどこにもないのです
ただ最後の『一期弘法抄』の内容から考えると
「国立」ではなく「国主立」と言う方が内容的には適切
大正後期から昭和にかけて
宗門の御先師の方と、他門とが法論した
その時に向こうが間違った「国立戒壇」の解釈を言ってきたので
こちらがきちんと
正しい「国立戒壇」を述べた
あくまでも日顕上人は鎌倉時代には
「国立戒壇」という日本語が存在しなかったと言われているだけで
正しい「国立戒壇」は有ると
言われております
そして日顕上人は
本書の中で
あくまでもその時代の憲法下で
御遺命の戒壇を論じなければならないと
書かれているので(64p)
御書に「国立戒壇」とのワードが無いからと言って
宗門の御先師の方が述べた
正しい「国立戒壇」の意味まで
御書には全くないのだ
とは言えないと思われる
〇日蓮大聖人の仏教を国教にする事は今の憲法下においては絶対に出来ない
しかし、みんなが信仰するようにならば
憲法を改正して国教にする事は理論的には出来る
しかし、「王法」の考え方には二通りあって
一つ目は
浅井会長の主張する
王法は国の統治主権であり、その統治主権と仏法が一つになる事
二つ目は
池田会長の主張する
王法は民衆であり天皇は関係ない
補足として、上記の池田会長の主張に対して日顕上人は
しかし、憲法が改正されれば話は別と言われている
(31p~32p)
↑
つまり、日顕上人の話をまとめると
憲法改正さえ出来れば
「国立戒壇」と言う名称を使う事は問題ない
ということになります
更に本書をよく読むと
池田会長の主張する御遺命の戒壇論は
間違っているとの趣旨が書いてあります
〇「国立戒壇」と言うのは政教分離が決まっているから
今の憲法下では絶対に出来ない
憲法改正については現実問題として
今日の日本乃至、世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない
それはむしろ時代に逆行するという非難から、正しい布教の妨げになるとも考えられます
(60p~61p)
「現在の憲法下で御遺命の戒壇」を考えるのが大事
(64p)
↑
日顕上人は御遺命の戒壇を現代の憲法で実現するなら憲法改正の必要性を理解されていると思われますしかし
時代に逆行するという非難があるから「国立戒壇」にしないと説明されています本書は20年程前の日顕上人の指導であります現在は、むしろ国民のプラスになるなら
国民によって憲法を改正できる様にしようとのニーズが高まり
20年程前よりも憲法改正のハードルは下がりました
この憲法改正のハードルが下がってきたとの
表現は
私のオリジナルの言葉ではないです
各社説でもって今や
国民にもこの言葉は馴染みが出てきている言葉ではないでしょうか?
そして令和3年9月18日に
「憲法改正国民投票法」が施行されました
総務省のホームページを見ると
冒頭に国民投票で可決された法案は
天皇が国民の名前で公布すると書かれています
日蓮正宗の目的は「御遺命の戒壇建立」です
現在はネットの普及もあり、日蓮大聖人の信仰に目覚める人も
今後、加速度を付けて多くなると思われます
その時に、多くの国民から
本当の御遺命の戒壇を建てるのに
憲法違反が邪魔して建てれないのなら
「御遺命の戒壇建設の為に憲法の改正が必要なのでは?」
との声が高まってくると思われます
そして晴れて、憲法改正によって御遺命の戒壇が建設される時に
どのような名称になるのか?
本書のなかでは「大正本堂」という名称の案がありますが
正本堂という名前が入っているので
国民には受け入れがたいのかなとも思います
やはり国が建てるとなると
「国立図書館」や
「国立公園」 「国立美術館」 「国立博物館」
などなどが一般的でなじみがあるので
国立による戒壇なら
「国立戒壇」との名称がいいとの声が国民から上がる可能性が充分にあると思われます
いくら宗門内で
「国立戒壇」の名称は使用しないと
言い張っても
国民の意見としてならば
その考えは
通用しないのではないかと推測します
なので現在は憲法改正がされていないので
「国立戒壇」と言う名称は使えませんが
宗門の目的から考えると
「国立戒壇」との名称は
なり得る可能性があるという事ではないでしょうか?
〇日顕上人はなぜ
日達上人が
「今後は国立戒壇という名称は使用しない」とおっしゃられたかという事を下記の様に説明されています
*****************************************************
昭和45年4月8日に創価学会は東京都知事から
「国立戒壇は憲法違反なのではないか?」
との質問された
↓
昭和45年4月22日
宗門で「時局懇談会」を開いて
(宗門の緊急会議みたいなものだと思う)
その中で日達上人は
戒壇の御本尊様がまします所は
いつでも・どこでも事の戒壇と表現していいと御指南された
との事
※しかし(47p)では
日顕上人個人の考えでは
事の戒壇というのは、やっぱり「一期弘法抄」「三大秘宝抄」
ではなのかと・・・・・
との文章が綴られています
更に(96p)では
『国立戒壇論の誤りについて』と
『本門戒壇の本義』の本について
その中に、正本堂は公布の時に
「一期弘法抄」「三大秘宝抄」の戒壇になると思って書いたけど
当時はそう思って書いたけれども
現在においては不適当であると
注意されています
更に(98p)では
当時書いた「一期弘法抄」「三大秘宝抄」の内容は
創価学会から圧力をかけられたから書いただけであって
そういう軽々しく考えるべきではない
と指摘されています
そして創価学会は東京都知事に
昭和45年4月23日に
「御遺命の戒壇は民衆で建てるので、国立の戒壇という表現は訂正します」
との回答をした
(70p~71p)
↑
と言う趣旨のことを言われています
つまり本書を読むと
宗門としては御遺命の戒壇は国立との考えはあるけど
創価学会の圧力によって
国立と言いづらくなってしまったのと
当時は国民の憲法改正への理解が少なかったから
との趣旨の事が書いてあります
〇昭和47年に日顕上人が書いた
『本門事の戒壇の本義』
『国立戒壇論の誤りについて』の本は
現在においては不適当であると
これははっきりと言っておきます
(96p)
〇2冊の本は創価学会の圧力によって
王法や勅宣・御教書の解釈を建築許可書と書かされてしまったが
本当の王法や勅宣・御教書の解釈は
そういう軽々しいものとして考えるのではなく
もっと深い背景的意義を排すべき
(98p)
↑
つまり
『国立戒壇論の誤りについて』のなかで
御遺命の戒壇とは
民衆で建てるのが正解で
国立で建てるのは間違い
と説明しているのは
創価学会の圧力によって書かされた
間違った戒壇論だから
あまり参考にしなくてよいとの趣旨が書いてあると思われます
〇御遺命という上からの一つの考え方として
「国主立戒壇」という呼称は
ある程度言ってもよいのではないかと思うのです
御遺命の戒壇は国民の総意でもって造るのだから
そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう
ところが「国立戒壇」にこだわるから
憲法に抵触してしまうので憲法改正が必要になってくる
↑
この部分は前の段落でも説明した通り
20年程前の、まだ国民が憲法改正に対する理解と要望が少ない時代の話でありました
現在は国民の意思でもって憲法が改正できる時代となりました
ましては、日顕上人は御遺命の戒壇は国民の総意が必要と
言われています
現在の政治形態にあてはめると
国民の総意で御遺命の戒壇を造る
との時代背景となれば
憲法改正の為の、国民投票が実施される事になると思います
そうなると、前の段落でも説明した通り
「国立戒壇」という名称が
なんらおかしな名称ではなくなるのでは
ないでしょうか?
つまり「国主立戒壇」の話を具体的にすすめると
現在の政治体制の元では
「国立戒壇」ということになるのではないでしょうか?
〇御遺命の戒壇とは
国民の総意において戒壇を建立するということになり
国民の総意でもって造るもの
(107p)
↑
この段落が一番分かりやすい指導ですね
要するに
御遺命の戒壇は
個人で建てるのは NG
グループで建てるのも NG
団体で建てるのも NG
民間企業・組織で建てるのも NG
ということですね
あくまでも国民の総意で御遺命の戒壇は建てるものと
説明されています
そして20年弱前の憲法下では
憲法の改正をしなくても
御遺命の戒壇を建てれる可能性が十分あるとの趣旨が
書いてあります
しかし、前の段落で説明した通り
現在の憲法下では
憲法改正の法整備が整っており
国民の総意が憲法を改正できるようになっております
以上
日顕上人の御指導を改めて確認させて頂きましたが
「国立戒壇」は「日蓮大聖人の仏法の第一義」などではありません。
という内容など全く書かれておりませんでした
寧ろ本書に書かれている内容は
宗門としては御遺命の戒壇は国立との考えはあるけど
創価学会の圧力によって
国立と言いづらくなってしまったのと
当時は国民の憲法改正への理解が少なかったから
との趣旨の事が書いてあります
そして日顕上人が将来の政治体制が変わった時に
御遺命の戒壇を考えるべきとの指導の通り
「国民投票法」という法案が施行された事により
憲法改正の法的準備は整いました
そして一番大事な事は
「国立戒壇」は「日蓮大聖人の仏法の第一義」などではありません。
と言うのは
本書の中で
正本堂の意義付けの為に、創価学会の圧力によって書かされた言葉との趣旨が至る所に書いてあります
以上をもって
「国立戒壇」は「日蓮大聖人の仏法の第一義」などではありません。
との日蓮正宗の回答は間違っているのではないでしょうか?
コメント