2022年7月16日 鬱将軍様への御返事

国立戒壇に関する調査報告書 旭川様への御返事その⑥ | 諸宗 破折 (ameblo.jp)

 

前の御返事に質問をしましたが回答が得られてません。

僕の質問は
①御影堂以外に戒壇を建てる論拠
②日興上人以外が戒壇を建てていい論拠
この2点です。
①一期弘法付属書で御遺命された
から 本門戒壇本堂である御影堂を日興上人が建立した。
日興跡条々事にて日目上人は
その御影堂を修理し勤行をして
広宣流布の日まで待つように言われた。
広宣流布の時にはもう使わないのならば
何故日目上人は修理を加える必要があったのでしょうか?
また、何故歴代上人は御影堂を修復しているのでしょうか。
戒壇建立が可能だと言われるのでしたら
こうした疑問に全て回答をお願い致します。
②そしてあなたが回答として出したものは日顕上人が言われていることですが
これは在民主権ということが前提になってます。
そしてこれは 回答になっていません。
御影堂以外に戒壇を建てる論拠にもなっていませんし
日興上人以外が戒壇を建立しても御遺命の戒壇となる論拠にもなっていません。
論拠がないのでしたら 一度論を取り下げて
日蓮大聖人の御書から御遺命の戒壇というものを考えてみてはどうでしょうか?

今回の鬱将軍様の回答は上記の2点の回答をしなさいということですよね

①への回答

御影堂を現代まで修理したり、改修工事をしている理由は判りません
(何故なのかは、宗門の詳しい人に理由を聞いて下さい、そしてその理由を私に教えて下さい、できれば誰が言われているのか教えて欲しいです)

しかし、鬱将軍様が納得しなくても、他の法華講員の方が日顕上人の指導に納得しているのだから、それでいいのではないですか

国立戒壇に関する調査報告書 旭川さんへのご返事② | 諸宗 破折 (ameblo.jp)
国立戒壇に関する調査報告書 旭川様への御返信その③ | 諸宗 破折 (ameblo.jp)

もう一度、鬱将軍様が御影堂が御遺命の戒壇と言われている論拠を載せておきます

つまり
御遺命の戒壇=富士山本門寺本堂
富士山本門寺本堂=大石寺本堂
大石寺本堂=御影堂

御影堂=御遺命の戒壇

なんですよね、日顕上人は御影堂を現代まで修理したり、改修工事をしている状況は把握していますよ
その状況を踏まえても
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」のなかで
御遺命の戒壇は国民の総意で造るものと判断されています

そして、鬱将軍様の御影堂=御遺命の戒壇との解釈は
この意味になるまで3ステップの変換が必要なことと
一般の人はこれをズバリ言ってるとは解釈しないと思いますが

上記の内容を言っている方は78代いる猊下達のなかで、日精上人だけなんですよね

それに、鬱将軍様が400年位前に書かれた方の御文の意味を正確に解釈できているかどうかは未知数です
誰が、鬱将軍様の翻訳を正解と判断しているのですか?

それに、ありの金吾様は御遺命の戒壇についての具体的な御指南をされているかたはいないと言われております

更に日顕上人は今の段階で御遺命の戒壇の作り方とかサイズは決めない方がいいとアドバイスされております
(鬱将軍様は辻褄が合わないと納得されていないとは思いますが、鬱将軍様の御影堂=御遺命戒壇論の考え方ですすめると、今度は近年の日顕上人の指導と辻褄が合わなくなります)

法華講員の方で、文証が無くても、その時の猊下が言われていることを信じることが日蓮正宗の信心と説明される方がおりますが
その考え方ではダメなのですか?

何百年もさかのぼって、いろいろな猊下の資料から、こんなことを言っている猊下がいると調べられているのはいいとは思いますが
どう考えても、鬱将軍様より日顕上人の指導の方が信憑性があると思うので
現段階では、なかなか鬱将軍様の意見に納得する人の方が少ないと思いますよ

やはり御遺命の戒壇は、国民の総意で造るものとの日顕上人の考えに従った方がいいのではないですか?

②への回答

まず「近現代における戒壇問題の経緯と真義」は

法華講員の方は御遺命の戒壇は、現代は主権在民だから
御遺命の戒壇は日顕上人の指導に沿って、御遺命の戒壇は国民の総意で造るものと
理解しております

在民主権を前提とするのは間違っていないと思います

2022年7月14日 鬱将軍様への御返事 | 国立戒壇に関する調査報告書 (asahikawa1990.com)
なぜ、法華講員の方が「近現代における戒壇問題の経緯と真義」の中で
日顕上人が言われる御遺命の戒壇は国民の総意で造るものと理解しているのに
日顕上人の指導が論拠とならないのでしょうか?

この日顕上人の指導が論拠とならないのなら、どんな文章だといいんですか?

日顕上人の文章を読めば、そのまま理解できるではないですか
なぜ、回答にならないのですか?
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」の発刊にあたってには
大聖人御遺命の戒壇の本義を正しく拝する上で、たいへん尊い御教示です
と書いてありますよ
一般的に考えて本書の内容を論拠とすることは問題ないと思います

それとも何百年も前の猊下の文章をわざわざ探さないとダメなのですか?
逆に正しく拝することが出来なくなるのではと思います

我々が御遺命の戒壇がなにか?を知りたいときは
過去の猊下の文章を引っ張りだして検証しないとダメなのですか?

そして、何百年も前の猊下の御遺命の戒壇の指導らしい文章を見つけたとして、どうやって自分が出した答えが正解か不正解が判断できるのですか?

昔の猊下の文章を持っていない人はどうすればいいのですか?
なんで我々がそのようなこととやらないといけないのですか?

日顕上人の指導は現代語で書かれていて内容が凄く分かりやすいです
仏法を知らない一般の人達も法華講員の方達が読んでも、御遺命の戒壇は国民の総意で造るんだなと直ぐに理解できると思います
一般的に考えて近年の猊下の指導を論拠にすることに誰も反対はしないと思いますが

400年位前の猊下の文章を鬱将軍様が翻訳されている状況より
近年の猊下の御遺命の戒壇の造り方に関する文章の方が、一般的には信頼度は上の様に思われますが

鬱将軍さまの御影堂=御遺命の戒壇の主張は
私を含め、一般の人達にも、法華講員の方達にも納得させるのは難しいと思います

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「憲法だって、将来どう変わるか判らない。
だから、そんなことに関して今、具体的な形で言う必要はないのです。」
日顕上人のこの御指南が、この話の結論です。

法華講員のありの金吾様は、今、御遺命の戒壇は具体的な形で言う必要がない
との結論を示しております
それだと、鬱将軍様の御影堂=御遺命の戒壇は具体的なので
ありの金吾様と意見が食い違っていると思いますがどうでしょうか?

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後、下記の回答が来てない様に思われますので宜しくお願い致します

結局、御影堂が『三大秘法抄』『一御弘法抄』に示される御遺命の最終戒壇ということで宜しいですね
の質問はYESなのかNOなのか
どちらなのでしょうか?
該当しないと書いてあるので、一見NOと言う意味なのかなとも思うのですけど
一応、確認の為

以上です

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