下記の内容も、よく各ブログの方達が書いている内容ですが
御遺命の戒壇を建てる時の費用について
国民からお金を集めて建てるなら御供養になる
国費で建てると国がお金を出している事になるので御供養の精神に反する
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」の内容を確認していこうと思います
まず初めに確認しなくてはならない内容は
本当の御遺命の戒壇は
国立なのか
民間立なのか
と言う問題です
御遺命の戒壇は国立なんだと、日蓮正宗が言われてるなら
私達は「国費だと御供養の精神に反する」との
口出しは出来ないと思います
【質問③】国立戒壇は日蓮大聖人の教義ではない(国立という定義はされていない)について
↑
本書の内容では
宗門としては御遺命の戒壇は国立との考えはあるけど
創価学会の圧力によって国立と言いづらくなってしまったのと
当時は国民の憲法改正への理解が少なかったから
との趣旨の事が書いてあります
つまり日蓮正宗としては
民間立ではなく国立の考えがあるとの趣旨が伺えます
※尺がないので要点だけまとめて記載します
創価学会は御遺命の戒壇は国家権力とは無関係であると言っている
民間立で建てた「正本堂」が本当の御遺命の戒壇だと言っている
だけど、浅井会長は御遺命の戒壇は国立なんだと主張している
日蓮正宗としては創価学会の主張に賛同して
「今後は国立戒壇という名称は使用しない」と宣言した
(70p~71p)
(日顕上人)は本当の御遺命の戒壇は
「一期弘法抄」「三大秘法抄」の戒壇だと思っているのだが・・・
当時、日達上人は正本堂は御遺命の戒壇とも、一応言えるとの根拠として
『法華取要文段』のなかで
本門戒壇の所住所が根源」と言われた
だけど「根源」とまでは言われなかったけど
そういう意味で正本堂も事の戒壇と言えると言われた
でもこれは日達上人のお書きになった文書ではなく
別の御先師が書かれた文書
しかし、これには浅井会長以外からも反対意見もあった・・・
(71p~73p)
*****************************************************
この部分は日顕上人は何を言われたいのかを推測すると
(96p~98p)を読めばその趣旨は理解できます
つまり
昭和40年代に書いた
「国立戒壇論の誤りについて」と「本門戒壇の本義」は創価学会の圧力によって
民間立で建てた、正本堂も御遺命の戒壇でいいとの趣旨を
書かされてしまったけど
現在においては不適とだとはっきり言っておくとの事
あの本のなかで王法や勅宣・御教書の解釈を軽々しく書いてしまったが
それは現代的な拝し方としてはダメ
↑
この段落だけを見ても
やはり、日蓮正宗としては
本当の御遺命の戒壇を民間立ではなく、国立と解釈しているものと思われます
そして
しかし、これには浅井会長以外からも反対意見もあった・・・
の部分は本書全体を読む限り
浅井会長の御遺命の戒壇論に関する主張は
間違ってはいないのでは?と思える
日顕上人の表現がかなり多く書かれております
(全部は書ききれないので詳しくは旭川のブログを見て下さい)
池田会長は浅井会長の抗議や色々な問題があって、結局
正本堂が御遺命の戒壇であると正面切ってはっきりといえなくなったのです
↑
つまり創価学会の民間立で建てた「正本堂」は
浅井会長の抗議でもって
本当の御遺命の戒壇だと言えなくなってしまった
との事だと思われます
現在の憲法下では
「国主立戒壇」という呼び方を使うのは問題ない
あくまでも本当の御遺命の戒壇は
国民の総意で造るもの
しかし現段階では国が造るとなると
憲法を改正しなくてはならないので
「国主立戒壇」でいいと思う
(107p)
以上の日顕上にの御指導を読み
国民からお金を集めて建てるなら御供養になる
国費で建てると国がお金を出している事になるので御供養の精神に反する
を考察すると
要するに国民から募金・集金・御供養・お布施
などからなる財源で
(民間立の)御遺命の戒壇を作るのはNGとの事だと思われる
あくまでも日蓮正宗としては
御遺命の戒壇は国立との考えがあると思われます
その中で我々が
国費で建てる御遺命の戒壇は御供養の精神から反する
との主張は
日蓮正宗の指導とはズレていると思われますが
どうでしょうか?
それに
国民から募金・集金・御供養・お布施
などからなる財源で
御遺命の戒壇が成立するなら
「正本堂」を造った時点で
御遺命の戒壇完成ではないのでしょうか?
コメント