【前回のつづき】
浅井会長が間に入って捨て身の考え方で、創価学会に抗議してくれたけど
そのなかで、浅井会長の主張する「国立戒壇」は田中智学と同じ内容なのでダメとの事で
日顕上人は(25p)に引き続き田中智学の主張する「国立戒壇の内容」を書かかれています
つまり勅命の「国立戒壇」だからダメなんだと
しかし、これは文書の表面上の意味ですね
深い意味は「正本堂の意義付け」の為に浅井会長の名前を借りているとわかります
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詳しくは以前、他のブログ内で書いているので読んで下さい
つまり、実際には浅井会長と田中智学の「国立戒壇」の主張は正反対なんですが
本書を読むと浅井会長の主張が正解と解釈できます
だからこの段落でも浅井会長は「捨て身の抗議をした」と書いてあり
また(85P)では浅井会長の抗議で、池田会長は正本堂を御遺命の戒壇というのを、断念したとの表現が書かれています
この部分は非常に読み解きずらい部分ですね
つまり「正本堂の意義付け」の作業は非常に難しいのが分かります
ストレートに「本物の御遺命の戒壇の定義の」変更をすれば全国の末寺住職から日達上人に非難が来る
だからどうしても第三者のせいにしないと話が進まない
正本堂の件で一番抗議したのは妙信講だとわかります、その妙信講に正本堂の意義付けの為に
名前を拝借して論を進めることが当時の状況では
必要だったのではないかと推測してます
つまり浅井会長の主張は田中智学の「国立戒壇」と同じだから間違っている
だから日蓮正宗は今までの御遺命の戒壇の定義を変更する
というのが大前提でないと、正本堂の意義付けが成立しないんではないか
このやり方が一番正本堂の意義付けを進めれる事なんだと、本書を読んで思いました
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