2022年6月25日 鬱将軍様への御返事

国立戒壇に関する調査報告書 旭川氏からの質問への返答 | 諸宗 破折 (ameblo.jp)

鬱将軍様
御返事ありがとうございます。

まず初めに私からの訂正カ所がありまして

「日顕上人は戒壇建立の願主は天皇と言っていますがどうでしょうか」
と記載しましたが
(25P)には
「国」の上から人格的な意味を示すと、結局天皇になるのであり、国が立てるというのと

と記載されており願主という意味で使用されておりませんでした
この部分は訂正致します

さてご質問の内容ですが

日顕上人は壇建立の願主は天皇陛下だと言っていますがどうでしょうか?

お答えをします。

まず当該文ですがこれは『国立戒壇』の語について明治以前の日蓮正宗に考えられてきたこととして言われている部分です。そしてこの考え方は

天皇主権である明治憲法が背景になっていると言われいます。

また戦後に於いては創価学会が憲法が変わり

在民主権となったから 国中の人を折伏して御本尊様を授与することが国立の戒壇になると戸田城聖さんは言われてます。

また同様のことを戸田城聖さんは三大秘法禀承事講義にも同様のことを講義されています。

日顕上人は近現代における戒壇問題の経緯と真偽の最後に 『国主立ということも言えるのではないか?』という形で締め括られます。しかし三大秘法義には

『一期弘法抄』には明確に『国主此の法を立てらるれば』と仰せである。ただしこの御付嘱は大聖人から日興上人に与えられたものであるから戒壇建立の御遺命を直接、拝命したのは日興上人であり、爾来、その御遺命は唯授一人の血脈とともに代々の法主上人が伝持あそばされ、現代に至っているのである。故に戒壇建立の主体者はあくまでも総本山大石寺の住持たる法主上人に存ずる。

しかして、この国主とは、現憲法下においては主権を持つ国民の意思であるが、国民の象徴としての天皇の意志も加わるものかと思われる。①しかし広宣流布戒壇建立の実状は御仏意に任せ奉るべきであり、現時においての断定はできない。

と仰せであり 主体者となるのは御法主上人であると明確に仰せです。

②願主とは願う人であるから戒壇建立の主体者のこととも言えます。 となると願主というのは

御法主上人になりませんか?

鬱将軍様が①で言わんとされている部分は下記の内容の日顕上人の指導と同じと解釈して宜しいでしょうか

「御本仏大聖人様が最後に御遺誡、また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々に論ずるべきではないと思います。
もちろん今、ある時点を予測して考えれば色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。
だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。
だから、そんなことに関して今、具体的な形で言う必要はないのです。
根本において、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確には顕れません。
よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。」
(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』98~99頁)

上記の内容に関しては現在、公開・非公開問わず
法華講員の方達から明確な回答が頂けていない状況です
是非とも鬱将軍様の見解を聞かせて頂きたいです

(97p)
戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまでも正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです

(98p)
あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可書」というようにも書いてしまってある

日顕上人は上記の内容の通り
御遺命の戒壇を「広宣流布前に建ててよい」「御遺命の戒壇は建築許可書があればよい」と書いてしまったと吐露されております

要するに
宗門が従来からの御遺命の戒壇建立の定義の
御遺命の戒壇は広宣流布後に建てること
勅宣・御教書の現代的な拝し方をすることを
変更してしまったということです

つまり、上記の内容を変更をしてしまうと発生する問題は
御遺命達成のゴール地点を撤去してしまうことになるという事です

だから日顕上人は
将来の事は判らないとか
広宣流布達成の判断は、その時の法主が決めてくれると信じている
みたいなアバウトな表現にならざるを得ないと思われます

————————————————————–

②に関しては
本門戒壇の大御本尊の願主が法華講衆なのは理解できますが
そもそも御遺命の戒壇に願主の概念は必要なのですか?
私は御遺命の戒壇に関して調査を行っておりますが
他の法華講員の方達が書いているブログ内で
御遺命の戒壇建立に願主の概念の記載を見たことがありません
どの書籍からの引用でしょうか?

願主とは願う人であるから戒壇建立の主体者のこととも言えます。 となると願主というのは御法主上人になりませんか?

そもそも御遺命の戒壇建立を願わない御法主上人はいないと思いますので
わざわざ願主の概念を付ける必要がないと思いますがどうでしょうか?

————————————————————–
以上です

すみませんがTwitterをやったことがないので現時点では鬱将軍様のアメブロに送らせて頂きます

御返事はこのサイトの問い合わせ欄か
アメブロのメールでも構いません
御遺命の戒壇に関する調査報告書 (ameblo.jp)

宜しくお願い致します

2022年6月25日
旭川

 

 

 

コメント