御影堂が戒壇だとするのは御歴代上人の文書に明らかですよ。
僕だけが言ってる事ではありません。
まず、御影堂は日興上人が創建した事
そこに本門戒壇之大御本尊が安置されていた事
日精上人が再建した時に本門戒壇本堂と記した事があげられます。
日蓮大聖人は本門戒壇を建立せよと御遺命をされました。
また百六箇抄にて富士山本門寺の本堂を
三大秘法建立の勝地と定められたのですから
御遺命の戒壇=富士山本門寺本堂となります。
広宣流布の時 本門寺となるのは大石寺です。日興上人は
四神相応の地に本門寺が建立されるとしてます。(趣意 富士一跡門徒存知事)
日亨上人は富士日興上人詳伝に四神相応の地は大石寺だと説明なされています。
ですから大石寺の本堂=本門寺本堂 となります。
大石寺の本堂とは御影堂の事です。
故に日精上人は本門戒壇本堂と棟札に記しました。
また大石寺明細志には
「本堂正南面檜皮葺、間口十四間奥行十三間、仏壇宮殿の中板漫茶羅竪三尺六寸横二尺、日蓮聖人木像御居長二尺八寸五分御膝両袖四尺一寸。
右再建の大施主台徳院様御養女阿州守太至鎮の室御法謚敬台院殿妙法日詔大姉。」(富士宗学要集八巻)
とあり
これは本堂として御影堂のことを説明なされています。
大石寺の本堂=御影堂だと説明があります。
また大石寺の御講や御会式を初めとした大石寺の行事は基本御影堂にておこなれます。
つまり
御遺命の戒壇=富士山本門寺本堂
富士山本門寺本堂=大石寺本堂
大石寺本堂=御影堂
御影堂=御遺命の戒壇です。
最後に日顕上人が言われている当該文は
一往考えるならばとあります。
一往というのは一般的な意義でということでその奥には再往があるという事です。
鬱将軍様
御返事ありがとうございます。
まず、上記で鬱将軍様が説明された御文は、いつに書かれた御文かは分かりませんが文面をみると相当古い御文を引用しているように思います
私が前回引用した日顕上人の御文は令和元年の書籍から引用しております
私が前回引用した日顕上人の御文は令和元年の書籍から引用しております
そうなると
一往というのは一般的な意義でということでその奥には再往があるという事です。の鬱将軍様の解釈は逆ではないですかね
一往というのは一般的な意義でということでその奥には再往があるという事です。の鬱将軍様の解釈は逆ではないですかね
上記の古い御文は日顕上人なら当然内容は把握しているハズです
それを十分考慮したうえで
日顕上人は今の段階で御遺命の戒壇の作り方とかサイズは決めない方がいいとアドバイスされていると思われます
日顕上人は更に
【近現代における戒壇問題の経緯と真義】(98p)
やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。
やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。
と話されております
つまり御遺命の戒壇は現代的な拝し方の必要性を言われていると思います
御影堂は現代では対象外になっているのではないでしょうか?
御影堂は現代では対象外になっているのではないでしょうか?
鬱将軍様の主張は昔は御影堂=御遺命の戒壇です。
なのかも知れませんが
なのかも知れませんが
御遺命の戒壇は現代的な拝し方に合わせるべきではないでしょうか
更にお言葉ですが
つまり
御遺命の戒壇=富士山本門寺本堂
①富士山本門寺本堂=大石寺本堂
②大石寺本堂=御影堂
➂御影堂=御遺命の戒壇です。
↑
3回変換しないと、御遺命の戒壇にたどり着かない解釈は
一般の人が読んでも説得力として
首を傾げるのではないでしょうか?
御影堂=御遺命の戒壇
とズバリ書いてある御文はないのですか?
※後、現在ありの金吾様という法華講員の方と討論しているのですが
旭川さんは御遺命の戒壇の建築条件が存在するのではないか?と言っていますが、日寛上人におかれてさえ、御遺命の戒壇についての具体的な御指南はされていないのです。
と御遺命の戒壇については具体的な御指南はされていないと言われていますが
同じ法華講員の中でも意見が違うのですか?
2022年7月2日 ありの金吾様からの御返事 | 国立戒壇に関する調査報告書 (asahikawa1990.com)
念の為Twitterでもご連絡しますが、届いていないようなら教えて下さい
2022年7月4日
旭川
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