顕正会員は事の戒壇の定義が理解できない | 顕正会員は日蓮正宗に帰伏するべし – 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
↓ありの金吾様のブログの内容です
これまで旭川ひろしさんという方とお互いのブログを使って、御遺命の戒壇について討論をしてきました。
しかし、旭川さんのお返事の内容があまりに酷いので、旭川さんに返事を書くのが馬鹿馬鹿しくなりました。
しかし、空気の読めない旭川さんは自分のブログで異常に長いお返事を書いてきました。
もはや旭川さんと討論する気はありませんが、せっかくなので今回の旭川ひろしさんのブログ記事の内容をネタにしてブログを更新してみました。(3)日蓮正宗は創価学会の圧力によって御遺命の戒壇の定義を変更せざるを得なかったのではないか?について
順番が違いますが、まずは(3)について書いてみます。
まず最初に、事の戒壇の定義を下記に簡潔に記してみました。
a. 広宣流布の暁に建立される御遺命の戒壇
b. 本門戒壇の大御本尊のおわします所
このように、事の戒壇の定義は2つあるのです。
しかし、現在の顕正会では、bの「本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義を教えていないため、顕正会員は事の戒壇の定義が正しく理解できないのです。
次に、bの定義の文証を挙げます。
まず、第六十世日開上人は御法蔵説法において、
「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして、若し此の霊場に一度も詣でん輩は…」
(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』196ページ)
と御指南されています。
この御法蔵説法において日開上人は、「其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられており、ここで「戒壇の大御本尊在す処が即ち本門事の戒壇」であると御指南されています。
さらに、第五十二世日霑上人の『三大秘法談』にも、
「未だ広布の時至らず事相の戒壇御建立なしといへども此の道場即是れ事の戒壇真の霊山事の寂光」
(『研究教学書 二三』418頁)
という御文があるのです。
そして、実は顕正会の浅井会長も解散処分を受ける前は、下記のように「本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」であると主張していたのです。
「次に「事の戒壇」の定義について確認をしておかねばならない。
その故は、昨年五月の学会総会に於て、猊下が「正本堂は事の戒壇である」と仰せられたことに就き、“猊下も既に御認承”と、かえって誇称するを屡々聞く故である。
総会に先立って森田副会長に念を押した憂いの一つはこれであった。
申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。
従来宗門に於ては、一天広布の暁に事相に立てられる国立戒壇を「事の戒壇」とし、その実現こそ宗門のいのちをかけた悲願であった。
だが、諸々の法相は所対によって異ると、さればいま猊下の仰せ給う「事の戒壇」とは、この広布の時の「事相」に約し給うものでなく、所住の法体の「事」に約し給うたものである。
即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。
従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。」
(『富士』第140号25ページ)
この文章は、昭和46年に浅井会長が書いた『「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う』の一節で、事の戒壇の定義についての詳細な説明が記載されています。
日達上人は「正本堂は事の戒壇である」と仰せられたが、それは「事の戒壇=御遺命の戒壇」とは全く別な意味であり、戒壇の大御本尊おわします所は「事の戒壇」と定義せられたのであると。
また、日顕上人も
「日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがある」
(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』72~73頁)
と仰せられているのです。
さて、現在の顕正会では、正本堂を「御遺命の事の戒壇」と主張した創価学会を助けるため、日達上人は「戒壇の大御本尊のおわします所(正本堂)が事の戒壇」だと御指南されたと主張しています。
しかし、それは逆だと思います。
創価学会の「正本堂=御遺命の事の戒壇」という主張を否定するため、日達上人は「戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義で、「正本堂は事の戒壇である」と御指南されたのではないでしょうか?
そもそも、2つある事の戒壇の定義のうち、
「本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義は御相伝だったので、当時はほとんど知られていなかったようです。
ゆえに、日顕上人は当時を振り返られて、
「我々は、事の戒壇というと、やはり『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。」
(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』71頁)
と述べられているのです。
つまり、この頃は「戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義がまだ公になっておらず、日蓮正宗のほとんどの方は「事の戒壇=御遺命の戒壇」という認識だったのです。
そして、学会はその認識に基づいて、「正本堂=御遺命の事の戒壇」と主張しました。
この時の「事の戒壇」とは御遺命の戒壇を意味していたのです。
しかし、日達上人は「本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義をもって、「正本堂は事の戒壇である」と御指南されたのです。
つまり、この場合の「事の戒壇」とは、「戒壇の大御本尊のおわします所」という意味であり、御遺命の戒壇という意味ではないのです。
それは裏を返せば、「正本堂=御遺命の事の戒壇」という学会の主張を、日達上人は否定されたということではないでしょうか?
それゆえ、浅井会長は下記のように前述の『「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う』のなかで、戒壇の大御本尊おわします所は「事の戒壇」であると認めたのだと思います。
「申すまでもなく、猊下がたまたま仰せになられた「事の戒壇」とは、宗門古来の定義とは全く別な意味であられる。
(中略)
即ち、戒壇の大御本尊おわします所は何処・何方にても直に「事の戒壇」と定義せられたのである。
従って、曾っての御宝蔵も、また現在の奉安殿も「事の戒壇」であり、将来正本堂にお遷り遊ばせば同じく「事の戒壇」であるとの御意であられる。」
(『富士』第140号25ページ)
このように、浅井会長は「戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇」という定義を百も承知なのです。
しかるに、この事の戒壇の定義を浅井会長は顕正会員には教えず、日達上人が事の戒壇の定義を勝手に変更したとか、学会の誑惑を助けたなどと言っているのです。
・正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことを認めていた妙信講
日達上人は昭和47年の「正本堂訓諭」において、正本堂は御遺命の戒壇そのものではないものの、「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」ことを御指南されているのです。
そして、その後に妙信講は昭和48年5月と昭和49年4月の2回にわたって、正本堂での御開扉を願い出ていますから、妙信講は正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことを認めていることになります。
妙信講は正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことについて抗議していませんよね?
正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことに対して特に抗議もせず、正本堂での御開扉を願い出ていますよね?
「正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことに対して、妙信講が抗議をしたのか・してないのかについてなのですが
「昭和四七年二月には浅井昭衛が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。
一つ目は「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の事の戒壇ではない」ということですが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。」
(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』73頁)
では上記の顕正会と宗門の主張をそれぞれ分かりやすく書きます
顕正会の要求は
(戒壇の大御本尊のまします所は、どこでも事の戒壇とは言えない)
宗門の主張は
(戒壇の大御本尊のまします所は、どこでも事の戒壇と言える)
この両者の明確な主張の違いが分かりますか?
プレゼントの正本堂も事の戒壇でOKとしてしまったら
宗門は正本堂を御遺命の戒壇と断定しなくても
正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでしまうではないですか?
顕正会が何に対して抗議をしていたのか、ありの金吾様は分からないのですか?」
旭川さんは日顕上人の御文を根拠として、妙信講は正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことに対して抗議していたと上記のように主張しました。
この旭川さんの主張は分かりにくいと思いますので、下記に簡潔にまとめてみました。
浅井会長は宗門に「事の戒壇」の見解を変えるよう要求
↓
宗門の見解は
戒壇の大御本尊のまします所(正本堂)は事の戒壇
↓
顕正会(妙信講)の要求は
戒壇の大御本尊のまします所(正本堂)は事の戒壇ではない
↓
顕正会の要求の動機は?
正本堂を事の戒壇としたら
正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでしまうから
↓
つまり
顕正会(妙信講)は正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことに対して抗議している
おそらく、これで合っていると思いますが、この旭川さんの解釈はデタラメです。
「プレゼントの正本堂も事の戒壇でOKとしてしまったら
宗門は正本堂を御遺命の戒壇と断定しなくても
正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでしまうではないですか?
顕正会が何に対して抗議をしていたのか、ありの金吾様は分からないのですか?」
そもそも、「事の戒壇」の定義に、「御遺命の戒壇の意義を含んでいる」というものはありません。
おそらく、旭川さんは先述の日達上人の「正本堂訓諭」をもとに言っているのだと思いますが、それは「事の戒壇」の定義とはまた別なのです。
それに、正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでいるという考え方は、昭和47年3月に初めて出てきたものだと思います。
つまり、昭和47年2月に浅井会長が「抗議」した時点では、正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでいるという考え方自体がなかったはずです。
したがって、昭和47年2月の浅井会長の「抗議」を根拠として、正本堂が御遺命の戒壇の意義を含むことに対して妙信講は抗議していたと主張することはできないのです。
(戒壇の大御本尊のまします所は、どこでも事の戒壇とは言えない)」
そもそも、先述の昭和46年の『「正本堂」に就き池田会長に糺し訴う』のなかで、浅井会長は戒壇の大御本尊おわします所は「事の戒壇」であると認めています。
このように、旭川さんは事の戒壇について、まともに理解できていないのです。
「昭和45年の時点では既に、宗門は正本堂を御遺命の戒壇の意義を含むとの考え方になっていたと推測します
この宗門の考え方がある以上
妙信講が創価学会に対して正本堂は御遺命の戒壇ではないと言ったところで
創価学会としては、「だって宗門からは正本堂も御遺命の戒壇の意義を含んでいると許可を貰っている」との
何とでも言い訳できる反論材料がある訳です
顕正会としては創価学会に対して「正本堂は御遺命の戒壇ではない」と断言したい所ですが
宗門の「どちらとも言えない」との曖昧なニュアンスが
創価学会が企む、正本堂の御遺命の戒壇計画を助けているんです」
この旭川さんの考え方は間違っています。
昭和45年の時点では、宗門に正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでいるという考え方はありません。
先述のように、正本堂は御遺命の戒壇の意義を含んでいるという考え方は、昭和47年3月に初めて出てきたものだと思います。
これまで見てきたように、旭川さんには御遺命の戒壇や正本堂の意義付けについての正確な知識はありません。
したがって、旭川さんには御遺命の戒壇について討論する能力は無いのです。
(1)現在の憲法下では「国立戒壇」は実現可能だから、実現可能なことを目的にするのは間違っていないについて
「日蓮正宗が御遺命の戒壇の定義に関して、不正をした」
「創価学会の御遺命の戒壇の定義変更に協力した」
このことについては、日顕上人が次のように述べられており、創価学会が破門され正本堂が無くなった現在から見れば、「言い過ぎやはみ出し」があったなどと訂正遊ばされているのです。
「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
(中略)
そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。」
(『近現代における戒壇問題の経緯と真義』97~98頁)
(2)日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えは無いについて
旭川さん
「では(2)については
日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えがあることを示す文証を提示できなかった
との結論で構いません」
旭川さんは日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えがあることを示す文証を提示できませんでした。
文証が無かったということは、日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えは無いことが証明されたということです。
(4)「御歴代四上人の主張された国立戒壇」と「顕正会の主張する国立戒壇」は、同じ「国立戒壇」という名称を使用していても意味は異なるについて
最後になりましたが、旭川さんには御遺命の戒壇についての正確な知識が無いので、御遺命の戒壇について討論する能力も無いのです。
よって、私は旭川さんと討論を続ける気はありません。
旭川さんからのお返事は不要です。
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