2022年5月2日 ありの金吾様からの御返事

旭川ひろし氏の国立戒壇論を破す―4 | 顕正会員は日蓮正宗に帰伏するべし – 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

今回の記事は、『旭川ひろし氏の国立戒壇論を破す―3』で掲載した私の返事に対する旭川ひろしさんのブログ記事への破折です。

内容は、旭川ひろしさんが自身のブログ『2022年5月2日 ありの金吾様からの御返事』に掲載したものと同じですが、今回こちらのブログで掲載するのにあたって、本文中にリンクを貼る、旭川さんの文章は赤字にするなど書式を整えさせていただきました。

↓↓↓↓【以下が私の破折文】↓↓↓↓

旭川さんへ

お返事ありがとうございました。

(1)現在の憲法下では「国立戒壇」は実現可能だから、実現可能なことを目的にするのは間違っていないについて

相変わらず旭川さんの文章はよく分かりませんが、現在は憲法改正が可能だから「国立戒壇」も実現可能と言いたいのでしょうか?

しかし、憲法改正は現実的に無理ですね。
このことについては、以下のサイトが分かりやすいです。

・それでも憲法改正が厳しい理由
https://news.yahoo.co.jp/byline/furuyatsunehira/20210512-00237525

(3)日蓮正宗は創価学会の圧力によって御遺命の戒壇の定義を変更せざるを得なかったのではないか?について

(3)についても、旭川さんが何が言いたいのかが、はっきりと分かりませんでした。

「日達上人が断定しなかったのではなく浅井会長の抗議があったから
創価学会が「正本堂」を御遺命の戒壇と言えなくなった」

そもそも、浅井昭衛にそんな権限はありませんでした。
旭川さんは元学会員なのに顕正会推しなんですね(笑)

さらに、昭和40年から昭和44年までの間は、顕正会(妙信講)も正本堂の意義に賛同していました。

当時の日蓮正宗において、「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かったのは事実でした。
そして、当時においては妙信講もその例外ではなかったのです。
さらに、顕正会(妙信講)は正本堂の意義に賛同した上で、正本堂の供養にも参加しているのです。

しかし、この時期においても、日達上人は正本堂を御遺命の戒壇だと断定されていません。
日達上人は一貫して正本堂を御遺命の戒壇だと断定されていないのです。

当時の日蓮正宗では「御遺命の戒壇が実現するかもしれない」と考えた人が多かったのは事実でしたが、今日から振り返ると行き過ぎの面があったとしても、それはすでに日達上人が正本堂の意義を最終的に確定された昭和47年の「訓諭」によって是正されているのです。

日達上人は「訓諭」において、正本堂は深い意義でもって建立されるとはいえ、未だ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのです。

この件については、私のブログの『正本堂の意義に賛同していた顕正会』で詳しく取り上げています。
https://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/201008190000/

また、顕正会は昭和45年9月11日の時点では、正本堂が将来的に御遺命の戒壇となり得ることを認めています。

さらに次の記述のように、昭和48年に妙信講は正本堂にて御開扉を願い出ています。
「御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。」
(『日蓮大聖人の仏法 改訂版』255ページ)

このように、「浅井会長の抗議」と言っても一時的なものであり、全体的には顕正会も正本堂の意義に賛同していました。

「この意義を含む
の部分が創価学会の圧力によって日蓮正宗が付け加えられてしまった部分ではないでしょうか?」

「この意義を含む」の部分が、創価学会の圧力によって付け加えられたと考えるのではなく、それも含めて日達上人の御指南と拝するのが日蓮正宗の信心のあり方なのです。

日蓮大聖人は『一代聖教大意』において、
「この経は相伝に有らざれば知り難し」
(『平成新編御書』92ページ)
と仰せられています。

相伝とは相承・付嘱等と同じ意味で、大聖人の仏法において、師匠より弟子に正しく法を伝授していく大事を、大聖人はこのように仰せられたのです。

そして、御遺命の戒壇を論じるにあたって最も大事なことは、大聖人の血脈を相承されている時の御法主上人がその時の時代性や政治体制などを考慮されて、どのように御指南されるかということであり、その御指南に従うことが日蓮正宗の本来の信仰のあり方なのです。

旭川さんは、大聖人の仏法において最も大事な御相承の内容は当然知りませんよね?
つまり、あなたは大聖人の仏法の全ては知らないのです。
そして、御相承の内容は全てを解くカギなのです。

ゆえに大聖人は「この経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せられているのです。
不相伝の人には、大聖人の仏法の全てを理解することは絶対にできません。

御遺命の戒壇については、時の御法主上人が血脈所持の上から御指南されるものであり、それ以外の者が論じるべきではありません。

この件については、私のブログの『「顕正会の主張する国立戒壇」を破す-4』で詳しく取り上げています。
https://plaza.rakuten.co.jp/arinokingo/diary/201001040000/

(2)日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えは無いについて

(2)については、旭川さんが何が言いたいのか凄く分かりにくいです。
まともに反論できないのなら、無理に返事を書かなくてもいいですよ。

『国立戒壇論の誤りについて』は参考資料には出来ないのでは?との質問がありましたが、そんなことはありません。

『国立戒壇論の誤りについて』を執筆された当時の日顕上人は教学部長であり、まだ日蓮正宗のトップではありませんでした。
その後、日顕上人は日達上人から御相承を受けられ、日蓮正宗のトップとなられたのでした。

そして、御相承を受けられた日顕上人は、平成16年に次のように御指南されています。
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。」
(『大日蓮 平成16年12月号』48頁)

つまり、『国立戒壇論の誤りについて』のなかで、「顕正会の主張する国立戒壇」を間違いだと日顕上人が仰った部分は正しかったのです。

この日顕上人の「顕正会の主張する国立戒壇」は間違いとの御指南に対し旭川さんは、
「つまり
日顕上人は法律の面から考えると「国立戒壇」は道理として間違っているけど
教義として考えると宗門は「国立」の考えがあるものと思われます」
と書いていますが、日顕上人は平成16年の御指南でそんなことは仰っていないと思います。
旭川さんの主観ではないでしょうか?

「そもそも
この田中智学の国立戒壇論自体が
顕正会の国立戒壇論とは全然違うんですがどうでしょうか?
(顕正会では強制ではないと言っておりますが)」

そもそも、
「田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り」
(『大日蓮 平成16年11月号』54頁)
と日顕上人が述べられているのですがどうでしょうか?

また、顕正会では強制ではないと言っている証拠はありますか?

それから、旭川さんは、
「教義として考えると宗門は「国立」の考えがあるものと思われます」
と書いていますね。

前回も言いましたが、何よりもまずは日蓮正宗に御遺命の戒壇は「国立」との考えがあることを文証を用いて証明するべきです!

日蓮大聖人は『聖愚問答抄』において、
「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよ」
(『平成新編御書』389ページ)
と文証の重要性を説かれ、文証の無いものを用いてはいけないと示されています。

そもそも、旭川さんは「文証」の意味がきちんと理解できていますか?

最後になりましたが、今回も『顕正会会長 浅井昭衛の〝最後に申すべき事〟を砕破す』の例の一節をもって締めとさせていただきます。

「御金言をよく拝せ。
国家で戒壇を建立せよなどと、どこにそのような文言があるというのだ。」

↑↑↑↑【以上が私の破折文】↑↑↑↑

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