法蔵 管理人様から下記の御返事が届きました
メッセージ本文:
失礼ながら、あなたは、御遺命の戒壇が国立であることに、深く執着しているように思います。
私は最初の投稿で、以下の4点を示しました。
“過去の戒壇は国立ではない”
“謗法者が納める税金で戒壇を建立するのは謗施”
“法主=師、国主=檀那であるから、国主は供養、寄進する立場”
“全世界に流布すべき宗教の聖地(戒壇)を一国家が所有するのはおかしい”
これらを普通に読めば、国立戒壇を否定、もしくは、その可能性が限りなく低いと感じるはずです。
ところが、あなたは、意外にも以下のような言辞を弄して、国立戒壇の可能性があると主張したのです。
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・なので、この段落では御遺命の戒壇が教義上「国立戒壇」ではないと断定できる結論にはならないと思います
・教義上「国立戒壇」が否定できない以上税金での戒壇建立の可能性はあると思います
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これでも十分驚きですが、さらに驚くべきことに、肝心要であるはずの「国立」の意味まで、将来は変化するかも知れないということまで言い出して、国立戒壇を正当化しようとしたのです。
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確かに、現時点では上記の内容だと、国立とは呼べないと思います
しかし、御遺命の戒壇建立は広宣流布達成後の話であって、未来のことであります
広宣流布達成後は、教育も、憲法も、医療も、臨終の考え方も、国民の考え方に様々な変化があると思われます
その様な、現在の辞書に書いてある「国立」の意味が未来には変更されている可能性もあると思っております
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普通に考えれば「国立」の意味が変われば、それはもう現代の我々が使う「国立」とは別物です。人間で言えば同姓同名の別人です。
警察が指名手配の犯人と同姓同名の別人を捕まえたら、誤認逮捕です(笑)
以上のように、あなたの論理は牽強付会、我田引水に満ちているように思われます。
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現在インターネット上では、法華講員の有識者の方達は口を揃えて「国立戒壇」は間違いと断定して世間に発信しております
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それは、「国家が設立し、維持・管理する」という意味での国立戒壇は間違いということでしょう。
そもそも、「国立戒壇」の語句は、他宗の田中某が言い出した、いわば造語であります。
それが、当時の国粋主義的風潮と同期して広まったものにすぎません。
そのような風潮の中で、宗門も一時期、「国立戒壇」の語を使用しましたが、”御遺命の戒壇”と言う意味で用いたに過ぎず、「国立」に深い意味があった訳ではありません。
事実、”御遺命の戒壇は国立である”といった踏み込んだ主張は、私の知る限り皆無であります。
そうであれば、「国立戒壇」の語はもちろん、国立を意図するかのような文証(御書)が存在しない以上、宗門として「国立戒壇」の語は使用しないし、目指してはいません。
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