下記の内容を法蔵 管理人様より頂きました
現在の「国立」の意味から考えられる国立戒壇では、色々と(御遺命に関する以外の)教義上の問題点があり、とても、ベストの選択とは思えません。
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その教義上の問題点とはどのようなことでしょうか?
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これは、前にも述べましたが、国費で建設する問題(謗施)、さらに、国立でありながら謗法の国民は参詣できないという問題(謗法厳誡)。
現実には、ほかにも色々と起こってくると思います。
こういうと、あなたは、例のごとく、色々な可能性を空想的に述べて反論するのでしょうが、
将来の希望的予測を持ち出さないと擁護できないような戒壇論であること自体、法華講員の批判の材料となるでしょう。
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お言葉ですが、現在の民主主義の形では上記の御文の、国主は国民と解釈するべきではないでしょうか?
国主が国民であるからこそ上記の御文は国民の総意として解釈するものだと思います
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現在は民主主義だから、国主=国民だという理屈はわかります。
しかし、それは現在の政治社会状況がそうだ、というに過ぎません。
将来も同じだとは言い切れません。
将来の社会状況がどうなるか分からないのに、今から「国民の総意」と決めつけること自体が、おかしいでしょう。
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私としては国立戒壇の可能性を主張しても、しなくてもどちらでも構いません
因みに勘違いして頂きたくないのは、私から国立戒壇の可能性を主張しだすことはありません
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そうでしょうか?
あなたは、「国立」の意味が将来は変わるかもしれない、とまで言って、国立戒壇の可能性をのべてきました。
そのような人が「国立戒壇の可能性を主張しても、しなくてもどちらでも構いません」と思っているとは信じがたいです。
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ただ、インターネット上では多数の法華講員の方々がサイト・ブログで国立戒壇は間違いと断定しておりその情報がネットで拡散されている状態であります
その考え方だけは訂正して頂きたいと思っております
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法華講員が批判するのは顕正会が述べている「国立戒壇」であり、また、それ以外には選択肢がないかのような主張であります。
「私としては国立戒壇の可能性を主張しても、しなくてもどちらでも構いません」というなら、宗門として国立戒壇を否定しても、そんなにムキになることはないでしょう(笑)
「国立」の意味を改変してまで”「国立戒壇」の可能性がある”というのでは、法華講員を納得させることはできないでしょう。
あなた自身が「国立戒壇」が正しい、またはベストであるという証明をしない限り、「訂正」されることはありません。
あなた自身が「国立戒壇の可能性」を固く信じているのではなく、
単に、法華講員が国立戒壇は間違いと断定していることを訂正させたいのだと知り、
「そうなんだ」と思ってしまいました。
あなた自身は、熱心な信仰者(信徒)ではないようですが、
いつ実現されるか分からない戒壇論に時間を割く暇があるならば、
自行化他の信行を実践し、戒壇建立が現実となる手助けをなさることをお勧めします。
私の言いたいことは大体尽きたようなので、以後の投稿は御遠慮させていただきます。
ありがとうございました。
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