斎藤英通さんにXにて下記の御返事を送りました
①国立戒壇の国立の意味は?
②その国立の意味は、御書にあるのか?
③それらは、日蓮正宗の教義か? 以上を国語辞書と、御書と日蓮正宗の公式で出して、国立戒壇こそ大聖人の御遺命の戒壇だと証明すべきです。
御返事ありがとうございます
何点かお伺いしたいのですが
〇なぜ、毎回私の質問に対して、斎藤さんは質問で返すのでしょうか?
今は、私が質問している番ですよ
何故、私の質問内容には一切触れないのでしょうか?
〇「旭川が、御書と日蓮正宗の公式の書籍から国立戒壇を証明すべきです」
ではないんですよ
論点は、斎藤さんが国立戒壇を否定できることを証明できるか・できないかなんですよ
斎藤さんはこの論点について討論する気はあるのですか?ハッキリして下さい
私は、どのパターンの国立戒壇否定の論拠も
論理的に破折できると何度も言っているではないですか
国立戒壇を何故否定できるか聞いているのは私なんですよ
斎藤さんの理屈は逆ですよ
斎藤さんが国立戒壇の国立の意味をみなさんに説明して、なぜ国立戒壇を否定できるのか
矛盾なく説明するんですよ
理解して貰えてますか?
私はなにか間違ったことをお伝えしてますか?
〇斎藤さんが言う「国立戒壇を建てろとは御書にもないし、歴代上人も誰も言ってない、だから国立戒壇を否定できる」
それは、それでいいんですよ
しかし、それは斎藤さんの言い分なんですよ
御書の内容の話ではないんですよ
この主張では、御書に書いてないと言うだけで、未来の御遺命の戒壇が国立ではないとの断定できる証拠になっていないと言っているのです
一般の人は、御書に何が書いてあるかは分からないし判断もできません
広宣流布達成後の戒壇建立の事業が本当に宗門の一団体で対応できるのか?
この討論をせずにどうやって未来の御遺命の戒壇建立が国立ではないと断定できるのですか?
断定できるのならば、その論理をご提示ください
だからこそ下記の2024年3月2日に私が斎藤さんに最後に質問した内容に繋がるし、斎藤さんの回答を待っている訳です
下記、もう一度張り付けておきます
〇解答してますよ?
ではないんですよ
斎藤さんは質問の意味が分かっていないようです
斎藤さんの回答は全て斎藤さんが思う、国立否定の論拠なんですよ
そうではなくて、実際には御書に書いてなくても建築されている建物はあります
この段落の質問は、国立か国立じゃないかとの内容ではいんですよ
ですから国立ではないとの類の回答は乖離してるんですよ
御書にない=建てることは出来ない
という定義の整合性を論理的に説明して欲しいとの依頼です
※6回目の依頼です
〇さて本題に入りますが
だれも日本国内の広宣流布などとの発言はしておりません
斎藤さんの上記の回答は要するに
「国家事業というのは御書に書いてないし、過去の日蓮正宗の歴代上人も言っていない」
と言うことですよね
それらは全て、自己申告なんですよ
それに伴って、広宣流布はいつまでとか、信心のレベルとか規模とかも何も御書には書いてないとの主張ですよね
例えば昔は合法だったからとの論理を持ち出して
現代にも当てはめるのは説得力がないではないですか?
この道理が分かりますか?
広宣流布は未来の話なんですよ
広宣流布までの規模・期間をアバウトにしてしまっては議論が進みません
現在の世界情勢からして広宣流布をのんびり考えてる場合ではないと思いますよ
日蓮正宗の書籍では度々「国民」とのワードが出てきます
斎藤さんはこの「国民」をどう考えてますか
日本人ですか
それとも日本人ではなく他の国の人達ですか?
それとも世界中の人々の総称ですか?
回答お願いします
どんどん、この議論の核心に迫りましょうよ
後一つ気になったのは
貴方の考える国立戒壇は無いと言えます。
との斎藤さんの発言ですが
私の考えだろうが、違かろうが
結局、国立戒壇の可能性はあると言うことですよね
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