斎藤英通さんにxにて下記の御返事をおくりました
結局国立戒壇の可能性はある??何故? そもそも世界に広宣流布するのが、何故?国立戒壇になるのでしょうか? まさか?日本が世界の盟主とか言わないですよね? 国立とは、国が運営して管理する。しかし、御書の何処に国が運営し管理するとありますか?無い。貴方の負けです。
歴代上人は、国内の広宣流布を言われてるから、国民を使うのは当然です。 国が管理運営する。国立競技場や国立公園みたく、国営すなわち日蓮正宗の建物でなく、国が維持管理するとなる。 貴方が言う国立戒壇は、屁理屈であり御書からも引用して破折していない。よって貴方の負けとなる。
最初に断っておきますが、私は御書に文句を言ったことは一度もありません
法華講員の方々の国立戒壇否定に利用する為の、御書の使い方が非論理的だと言っているのです
さて本題に入ります
最初に確認しますが、斎藤さん特有のハッキリしない、フニャフニャした回答ですが
要するに宗門で使う国民の意味は、日本国民のことでいいんですよね?
次回ノーコメントの場合、国民=日本国民の意味として私は使わして貰います
斎藤さんは毎度、毎度同じセリフの繰り返し反論ですが
再度確認します
「御書に国が運営し管理すると御書に書いてないから、未来に建てる御遺命の戒壇は、100%国立にはならなと断定できるのですね」
「国立の戒壇が実現不可能と断定する根拠は、御書にないからなんですよね」
合ってますよね
よくもまあ、このような幼稚な論法が口にできるなと思います
そして私の負け確定ですか・・・
斎藤さんの反論内容、後世まで記録しておきます
では、私から再度、道理をもって反論致します
〇斎藤さんが言われる、御書に書いてない=未来に造ることは出来ない、との定義が本当に成立するのならば
現在において多数造られてきた御書に書いていない建物はなぜ造ることが出来るのか?
斎藤さんが言っている定義との整合性を説明して下さい
(※今回で7回目の質問です)
御書に書いてあるか・ないかは未来に造る建物の判断基準にならないのではないですか?
〇斎藤さんは御遺命の戒壇は100%国立ではないと断定しておりますが
では御遺命の戒壇の正解の建物は何でしょうか?
恐らく斎藤さんは「分からない」と回答するでしょう
では、正解が分からない斎藤さんが何故、未来の国立の可能性が100%ないと断定できるのでしょうか?
いったい斎藤さんは何者なのでしょうか?
皆さんが納得できるよう論理的に説明して下さい
〇斎藤さんにお伺いします、御書には建築許可書との文言は書いてないはずです
では、御遺命の戒壇を造るときに「御書に書いてない」との理由で
建築許可を取らなくても御遺命の戒壇を勝手に宗門で造っていいのでしょうか?
御書に書いてないとの理由で
法律・政令などを無視していいのでしょうか?
〇未来の御遺命の戒壇に関しては、御書に書いてあるか・ないかは判断基準にはならないと思います
その時代時代に応じて、憲法も政治の在り方も、また現在の民主主義の形だってどう変わるか分かりません
その時代において、広宣流布達成後の御遺命の戒壇建立の一大事業が、日蓮正宗の一組織で対応できる範疇ではなく、国家事業として対応せざるを得ないのならば、国家と日蓮正宗が協力体制を取る可能性はあると私は思っておりますが
もし、100%ないと斎藤さんが断定するのならばその論理をお示し下さい
※斎藤さんのことですから、上記の回答を求めると
「国立にしたら、御本尊様を守れなくなる!」とかの、論点をずらした反論に切り替えると思っておりますが
まずは、御書に書いてないことは本当に成立不可能と断定できるのか、の議題を先に完結させましょうよ
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