〝最後に申すべき事〟を砕破す (jagihashaku.main.jp)
日蓮正宗青年僧侶邪義破折班の下記の内容に関して質問を致しました
三、〝第二章 「御遺命破壊」についての反論を破す〟との詐言を破折す
汝は、悪書の第二章を〝御遺命破壊についての反論を破す〟と題し、日顕上人が『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』を執筆されたことを、〝御本仏の一期の御遺命を破壊せんとするほどの大罪〟と決めつけた上、その執筆理由を〝宗門を牛耳る権力者・池田大作の寵を得れば、宗門の最高位にも登れると夢見た〟ためとし、さらに、〝選挙に狂奔(きょうほん)する池田にとって、評論家たちの「学会が目的とする国立戒壇は、政教分離を規定した憲法に違反する」との批判はもっとも痛かった。ここに彼は国立戒壇を否定するのに「民衆立の戒壇・正本堂」という誑惑を思いついた。そして汝に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせ、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかりをさせたのである〟と罵っている。
日顕上人が二書を執筆された理由は、ほかでもない。汝昭衛と池田創価学会の戒壇に関する見解がともに本宗の本義に外れていたからである。
終戦後、新憲法の下に折伏弘教の勢いは未曽有の成果を収め、まさに広宣流布の時代の到来を感じさせるものがあった。御遺命の戒壇建立は本宗僧俗の悲願である。そこに正本堂の建立とが相俟って、戒壇について次第に不統一な見解が生じたのである。特に、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成と固執する見解と、汝昭衛の田中智学流の国立戒壇に固執する見解が、ともに正義に外れていたことは大問題であった。宗門としてはこれらの異義を是正善導する必要が生じたのである。この経緯に関して、日顕上人は昨平成十六年八月の全国教師講習会の砌、
浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられている。この仰せのように、①正本堂の意義付けの問題の解決の方途として、日達上人の御指南を賜り、本宗戒壇の本来の在り方を示しつつ、両者の行き過ぎや邪義を矯正破折するとともに、宗内の見解を統一善導するために、日顕上人は二書を執筆遊ばされたのである。汝は〝御遺命を破壊〟とか〝正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかり〟と悪口するが、それが大邪見であることは明らかである。ただしその二書における信徒に対する慰撫教導は、正本堂建立という事相に即したものであったために、池田創価学会が謗法となった今日から見れば、行き過ぎや書きすぎもあったと日顕上人は訂正遊ばされているのである。
しかし、汝の田中智学流の国立戒壇に対する破折は厳然たる正義であり、自らの邪義を破折善導賜った大恩を少しも覚らずに、恨みを抱いて悪口誹謗に終始する汝は、救いようのない大莫迦者である。
また汝は日顕上人に対し〝汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている〟というが、日顕上人は、昨年の全国教師講習会において、
結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。(大日蓮平成十六年十二月号四八頁)
と御指南されており、現在でも国立戒壇は間違いと考えられていることが明らかではないか。しかもその理由は、
田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられるように、汝の国立戒壇が身延くずれの田中智学の邪義に酷似しているからである。汝の日顕上人への〝汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている〟との言は、あたかも日顕上人が「日蓮大聖人の戒壇の正義は田中智学の国立戒壇にある」と認識しておられるということである。これは悪口誹謗のためとはいえ、あまりに莫迦げた独断と偏見ではないか。汝の悩乱が、ここに明白である。要するに、汝が喋々(ちょうちょう)することは、己れの誑惑を隠す目的の、ためにする悪口・妄語であり、その所業は下種三宝尊に背逆する大謗法であることは言うまでもない。
汝は〝御遺命に背いた罰によって、汝と池田大作との間に自界叛逆(ほんぎゃく)ともいうべき仲間割れが生ずると、汝は卑怯(ひきょう)にも一切の罪を池田に着せ、己れは被害者のような顔をして二冊の悪書の幕引きを図っている〟というが、創価学会の謗法化と破門を〝自界叛逆〟ということも汝の詐術(さじゅつ)である。真実は、日顕上人の破邪顕正の御教導に照らされて、池田の謗法・逆心という魔の本性が顕れたに過ぎない。
二書に書かれた内容は、正本堂建設に関して生じた汝と池田大作の邪義・邪念に対応した戒壇義の展開であるが、その基本は正本堂という建物について、宗内の見解を統一し慰撫教導するために著されたのである。
故に日顕上人が、前掲の御指南に、
創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられているのであって、創価学会については、その行き過ぎを訂正されたのであるが、これを汝は疑うのである。ここに仰せられる「創価学会の行き過ぎ」とは、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成とする我見であった。しかし、当時の創価学会の広布前進の勢いは尋常なものではなく、日達上人はその強大な創価学会を正しく導くために対応に非常に苦慮された。すなわち日達上人は池田大作の邪念を矯正(きょうせい)されるに際し、日蓮正宗信徒であった創価学会員の御遺命達成に向けての折伏の情熱に水を差さぬように配慮されたのである。日顕上人はこの日達上人の御意を体して二書を執筆され、その中で正本堂の意義付けをされたのである。
正本堂の意義について日達上人は、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。(大日蓮昭和四十七年六月号二頁)
と御指南されて、正本堂は「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、当時はいまだ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのである。しかし池田大作は、正本堂建立をもって御遺命が達成されたとすることに固執した。このため日顕上人は、正本堂について「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」との訓諭の意義の上から種々に述べられ、創価学会をも教導されたのである。
その中で『三大秘法抄』について、当時の事相に即した解釈をされているが、これも正本堂が「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、いまだ御遺命の戒壇そのものではないというところに、二書の基調が存するのである。要するに一連の教導は、総じては宗内僧俗に対するものであるが、別しては池田大作および創価学会員に対する善導なのである。池田大作等を善導することによって、異体同心の確立と広布への前進を目指されたのである。しかし、このような日達上人と日顕上人の御慈悲を、第六天の魔王に魅入(みい)られた池田大作は無慚にも踏みにじってしまった。
したがって二書に述べられた内容には、正本堂について、当時のみに限られた意味が存しているのであり、これらについては当時は四悉檀(しつだん)の上からの慰撫教導としての正しい意義が存したのであるが、池田大作が謗法となり果て、創価学会員も全て本宗信徒の資格を喪失し、正本堂も撤去されてしまった現在となっては、その意義を論ずることは無意味なのである。故に日顕上人は、
昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
(大日蓮平成十六年十二月号五四頁)
と述べられて、二書が正本堂建立を背景として執筆されたものであって、「言い過ぎやはみ出しがあるけれども」それも正本堂に関することであるから、正本堂がなくなった現在となっては、もはやその正本堂に関する意義について論ずることは空論であると御指南である。そして、それは池田創価学会がニセ本尊作製等、三宝破壊の大謗法を犯し、創価学会員が正法敵対の邪教徒となった実状を踏まえた御指南なのである。よって汝が〝一切の罪を池田に着せ〟などということは、邪見による悪口に過ぎない。
二書が執筆された当時にあっては、日達上人の訓諭はもとより、二書に示された意義内容を深く拝して信順し、異体同心することこそ本宗僧俗の取るべき道であった。事実、汝等以外の、本宗僧俗は皆信順していたのである。ところが汝は、血脈付法の日達上人の御内証を即宗祖日蓮大聖人の御内証と拝信するという、②日蓮大聖人の仏法の基本的信心が薄弱なために、日達上人の深意を拝するどころか、御指南に信順すらできずに、自己の我意我見を先とした、田中智学流の国立戒壇の邪義を申し狂い、ついに叛逆(はんぎゃく)してしまったのである。
そのような汝が、日顕上人の御指南に対し、〝二冊の悪書の幕引きを図っている〟などというが、笑止千万である。我ら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班に、汝の過去の矛盾に満ちた発言を暴かれた上、その邪義を木端微塵(こっぱみじん)にされた、汝昭衛こそ、顕正会員にこれ以上の動揺が走るのを恐れて〝最後に申すべき事〟などと大仰(おおぎょう)なタイトルで見え透いたハッタリをかまし、汝の一連の〝御遺命守護〟や〝対決申し入れ〟などのパフォーマンスの〝幕引きを図っている〟ことは誰の目にも明らかではないか。
また汝は〝「国主立戒壇」なる新たなたばかりを言い出していることは、断じて許されない〟などと述べる。これについては後述するが、日顕上人は『一期弘法抄』の「国主此の法を立てらるれば」の御文に忠実に、そのまま「国主立戒壇」と仰せなのであり、まさに正義であり正論である。これを〝たばかり〟などと謗る汝の悪言こそ〝たばかり〟であり、大聖人の御金言の意に背く大謗法である。
汝は、悪書の第二章を〝御遺命破壊についての反論を破す〟と題し、日顕上人が『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』を執筆されたことを、〝御本仏の一期の御遺命を破壊せんとするほどの大罪〟と決めつけた上、その執筆理由を〝宗門を牛耳る権力者・池田大作の寵を得れば、宗門の最高位にも登れると夢見た〟ためとし、さらに、〝選挙に狂奔(きょうほん)する池田にとって、評論家たちの「学会が目的とする国立戒壇は、政教分離を規定した憲法に違反する」との批判はもっとも痛かった。ここに彼は国立戒壇を否定するのに「民衆立の戒壇・正本堂」という誑惑を思いついた。そして汝に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせ、あたかも正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかりをさせたのである〟と罵っている。
日顕上人が二書を執筆された理由は、ほかでもない。汝昭衛と池田創価学会の戒壇に関する見解がともに本宗の本義に外れていたからである。
終戦後、新憲法の下に折伏弘教の勢いは未曽有の成果を収め、まさに広宣流布の時代の到来を感じさせるものがあった。御遺命の戒壇建立は本宗僧俗の悲願である。そこに正本堂の建立とが相俟って、戒壇について次第に不統一な見解が生じたのである。特に、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成と固執する見解と、汝昭衛の田中智学流の国立戒壇に固執する見解が、ともに正義に外れていたことは大問題であった。宗門としてはこれらの異義を是正善導する必要が生じたのである。この経緯に関して、日顕上人は昨平成十六年八月の全国教師講習会の砌、
浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられている。この仰せのように、①正本堂の意義付けの問題の解決の方途として、日達上人の御指南を賜り、本宗戒壇の本来の在り方を示しつつ、両者の行き過ぎや邪義を矯正破折するとともに、宗内の見解を統一善導するために、日顕上人は二書を執筆遊ばされたのである。汝は〝御遺命を破壊〟とか〝正本堂が御遺命の戒壇に当るかのごときたばかり〟と悪口するが、それが大邪見であることは明らかである。ただしその二書における信徒に対する慰撫教導は、正本堂建立という事相に即したものであったために、池田創価学会が謗法となった今日から見れば、行き過ぎや書きすぎもあったと日顕上人は訂正遊ばされているのである。
しかし、汝の田中智学流の国立戒壇に対する破折は厳然たる正義であり、自らの邪義を破折善導賜った大恩を少しも覚らずに、恨みを抱いて悪口誹謗に終始する汝は、救いようのない大莫迦者である。
また汝は日顕上人に対し〝汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている〟というが、日顕上人は、昨年の全国教師講習会において、
結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。(大日蓮平成十六年十二月号四八頁)
と御指南されており、現在でも国立戒壇は間違いと考えられていることが明らかではないか。しかもその理由は、
田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられるように、汝の国立戒壇が身延くずれの田中智学の邪義に酷似しているからである。汝の日顕上人への〝汝はもとより、大聖人の御遺命が国立戒壇であることはよくよく知っている〟との言は、あたかも日顕上人が「日蓮大聖人の戒壇の正義は田中智学の国立戒壇にある」と認識しておられるということである。これは悪口誹謗のためとはいえ、あまりに莫迦げた独断と偏見ではないか。汝の悩乱が、ここに明白である。要するに、汝が喋々(ちょうちょう)することは、己れの誑惑を隠す目的の、ためにする悪口・妄語であり、その所業は下種三宝尊に背逆する大謗法であることは言うまでもない。
汝は〝御遺命に背いた罰によって、汝と池田大作との間に自界叛逆(ほんぎゃく)ともいうべき仲間割れが生ずると、汝は卑怯(ひきょう)にも一切の罪を池田に着せ、己れは被害者のような顔をして二冊の悪書の幕引きを図っている〟というが、創価学会の謗法化と破門を〝自界叛逆〟ということも汝の詐術(さじゅつ)である。真実は、日顕上人の破邪顕正の御教導に照らされて、池田の謗法・逆心という魔の本性が顕れたに過ぎない。
二書に書かれた内容は、正本堂建設に関して生じた汝と池田大作の邪義・邪念に対応した戒壇義の展開であるが、その基本は正本堂という建物について、宗内の見解を統一し慰撫教導するために著されたのである。
故に日顕上人が、前掲の御指南に、
創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。(大日蓮平成十六年十一月号五四頁)
と述べられているのであって、創価学会については、その行き過ぎを訂正されたのであるが、これを汝は疑うのである。ここに仰せられる「創価学会の行き過ぎ」とは、池田大作の正本堂建立即御遺命の達成とする我見であった。しかし、当時の創価学会の広布前進の勢いは尋常なものではなく、日達上人はその強大な創価学会を正しく導くために対応に非常に苦慮された。すなわち日達上人は池田大作の邪念を矯正(きょうせい)されるに際し、日蓮正宗信徒であった創価学会員の御遺命達成に向けての折伏の情熱に水を差さぬように配慮されたのである。日顕上人はこの日達上人の御意を体して二書を執筆され、その中で正本堂の意義付けをされたのである。
正本堂の意義について日達上人は、昭和四十七年四月二十八日の訓諭において、
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。(大日蓮昭和四十七年六月号二頁)
と御指南されて、正本堂は「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、当時はいまだ御遺命の戒壇そのものではないことを明らかにされたのである。しかし池田大作は、正本堂建立をもって御遺命が達成されたとすることに固執した。このため日顕上人は、正本堂について「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」との訓諭の意義の上から種々に述べられ、創価学会をも教導されたのである。
その中で『三大秘法抄』について、当時の事相に即した解釈をされているが、これも正本堂が「一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む」とはいえ、いまだ御遺命の戒壇そのものではないというところに、二書の基調が存するのである。要するに一連の教導は、総じては宗内僧俗に対するものであるが、別しては池田大作および創価学会員に対する善導なのである。池田大作等を善導することによって、異体同心の確立と広布への前進を目指されたのである。しかし、このような日達上人と日顕上人の御慈悲を、第六天の魔王に魅入(みい)られた池田大作は無慚にも踏みにじってしまった。
したがって二書に述べられた内容には、正本堂について、当時のみに限られた意味が存しているのであり、これらについては当時は四悉檀(しつだん)の上からの慰撫教導としての正しい意義が存したのであるが、池田大作が謗法となり果て、創価学会員も全て本宗信徒の資格を喪失し、正本堂も撤去されてしまった現在となっては、その意義を論ずることは無意味なのである。故に日顕上人は、
昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。
(大日蓮平成十六年十二月号五四頁)
と述べられて、二書が正本堂建立を背景として執筆されたものであって、「言い過ぎやはみ出しがあるけれども」それも正本堂に関することであるから、正本堂がなくなった現在となっては、もはやその正本堂に関する意義について論ずることは空論であると御指南である。そして、それは池田創価学会がニセ本尊作製等、三宝破壊の大謗法を犯し、創価学会員が正法敵対の邪教徒となった実状を踏まえた御指南なのである。よって汝が〝一切の罪を池田に着せ〟などということは、邪見による悪口に過ぎない。
二書が執筆された当時にあっては、日達上人の訓諭はもとより、二書に示された意義内容を深く拝して信順し、異体同心することこそ本宗僧俗の取るべき道であった。事実、汝等以外の、本宗僧俗は皆信順していたのである。ところが汝は、血脈付法の日達上人の御内証を即宗祖日蓮大聖人の御内証と拝信するという、②日蓮大聖人の仏法の基本的信心が薄弱なために、日達上人の深意を拝するどころか、御指南に信順すらできずに、自己の我意我見を先とした、田中智学流の国立戒壇の邪義を申し狂い、ついに叛逆(はんぎゃく)してしまったのである。
そのような汝が、日顕上人の御指南に対し、〝二冊の悪書の幕引きを図っている〟などというが、笑止千万である。我ら日蓮正宗青年僧侶邪義破折班に、汝の過去の矛盾に満ちた発言を暴かれた上、その邪義を木端微塵(こっぱみじん)にされた、汝昭衛こそ、顕正会員にこれ以上の動揺が走るのを恐れて〝最後に申すべき事〟などと大仰(おおぎょう)なタイトルで見え透いたハッタリをかまし、汝の一連の〝御遺命守護〟や〝対決申し入れ〟などのパフォーマンスの〝幕引きを図っている〟ことは誰の目にも明らかではないか。
また汝は〝「国主立戒壇」なる新たなたばかりを言い出していることは、断じて許されない〟などと述べる。これについては後述するが、日顕上人は『一期弘法抄』の「国主此の法を立てらるれば」の御文に忠実に、そのまま「国主立戒壇」と仰せなのであり、まさに正義であり正論である。これを〝たばかり〟などと謗る汝の悪言こそ〝たばかり〟であり、大聖人の御金言の意に背く大謗法である。
①について
破折班は
正本堂の意義付けの問題の解決の方途として
二書を日顕上人は書かれたとの説明をされておりますが
その解釈は逆で
解決の為に書いたのではなく、正本堂の意義付けの為に二書は書かされたのではないでしょうか?
①について
二書を書いた理由の一つに
妙信講(顕正会)の国立戒壇論と田中智学の国立戒壇論がうり二つだからとの内容が書かれていると思いますが
そもそも妙信講(顕正会)の国立戒壇論と田中智学の国立戒壇論は
似て非なるものだと思いますがどうでしょうか?
②について
「近現代における戒壇問題の経緯と真義」を読む限り
当時の日達上人の御指南を信順できなかったのは致し方無いのではと思いますがどうでしょうか?
後、御遺命の戒壇と正本堂
教義上何の違いがあるのでしょうか?
お忙しいところ恐縮ですが
ご回答宜しくお願い致します
↓私のブログです
私宛のメールも載っております
国立戒壇に関する調査報告書 | 全国民に対して調査内容を報告しています (asahikawa1990.com)
2022年12月10日
旭川
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